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2008年6月の30件の記事

続×4感動とは?

前回に続き、「感じる情動・学ぶ感情(福田正治著)」からです。

芸術には文芸、音楽、絵画、彫刻、建築、演劇、舞踊、映画などのさまざまな分野があり、これらは感情を抜きにして議論することはできないと言われている。
たとえば、文芸であれば言葉を通して直接、愛やよろこび、恐れや怒りを表し、それが読者に共感を与えている。
感情の起伏のない小説は小説ではない。
(じゃあ、感情を廃して作曲されたと言われるシェーンベルクの音楽はどうなのでしょう?感情を廃したとは言っても、聞いたときに何らかの心の動きは出てくるわけで・・・。そうすると、結局は感情を抜きにして語ることはできないということになるのかな?みなさんはどう考えますか?これを考えていること自体が、感情を抜きにして議論することはできないということを証明しているのかな?)
また、言葉に表すことができない感情は、音楽、絵画、彫刻などを通して感情のコミュニケーションとなって鑑賞者である私たちに伝わってくる。

感情のコミュニケーションを成立させるためには、第1に送り手が何かの感情を感じなければならない。
送り手は感じる能力や鋭敏な感受性を持っていなければならないし、持っていない人は磨かなければならない。
そして、それを表現できる手段を持たなければならない。
表現する手段の基本的なものは、どの人間でも持っている。
しかし、洗練された表現手段を持とうとしたら、そこには訓練が必要となる。
また、コミュニケーションの成立には、それを受け取る受け手の存在も必要である。
受け手は非連続した情報を受け取り、その中に含まれている感情を想像・連想する能力を持っていなければならない。
多くの場合、基本的な感情は人間に共通に備わっているため、それが共通言語となって同じ感情が伝わっていくことになる。
高度で複雑な感情の伝達は受け手の感性によって異なってくる。
そこに芸術としての感情の伝達が成立し、そのことを芸術心理学では感情移入、共感という言葉で説明している。

これらを読み進めると、コミュニケーションにおける送り手と受け手、そのどちらにも鋭敏な感受性と豊かな感性が必要と言うことがわかります。
感受性が鋭敏であればあるほど、感性が豊かであれば豊であるほど、より深い感情のコミュニケーションがとれるということなのでしょう。
私たちが今まで感受性をはぐくみ、感性を豊かにするためにこれまで研究してきた「わかる・できる」はとても意味のあることだったと思います。
今回の研究大会では、それをより発展させ、しかも「感動」に重きを置いた研究を進めようとしています。
そのために「響感」を大切にした音楽学習を研究していこうと考えています。
感受性、感性のその先にあるもの、そこをめざそうとしているのです。
偶然ですが、よい本に出会ったと感謝しています。
空知の大会の方向性が何となく見えてくる気がします。
次回は、この本の中から「感動を深めること」について紹介します。

続×3感動とは?

新しいものに挑戦しようとするとき、自分の取り組んでいることに意味や価値があるのか、方向性として正しいのか・・・残念ながら、そんなことは全くわかりません。
だって「新しいもの」ということは、たぶん他の人がやっていないことですから。
他の人がやっていないことだからわからないことだらけです。
失敗もたくさんあります。
一歩を踏み出して取り組んでみたら、たまたま同じ考えの人に出会ったり、理論的に証明されたり・・・後から後から確証を得ることができ、勇気づけられるなんてことばかりです。
まるで博打の世界みたいですよね。
私は学者ではないので、自分自身で何かを追求して新しい理論を打ち立てるなんてことはできません。
自分の考えの方向性が正しいことを裏付けるための理論は学者の方々が考えてくれます。
学者の方々が考えた理論のなかで、自分の考えを証明してくれるようなものを利用しているだけです。
不思議と自分の理論を裏付けるようなものが出てくるんですよね。
その意味で私は幸運に恵まれているといえます。

今回、「感動」について考えているときに「感じる情動・学ぶ感情(福田正治著)」という本に出会いました。
これから少しずつ私の考えと関連しているところを紹介していこうと考えています。
このブログのなかでも書きましたが、「なぜ音楽を聞いて感動するのか」について現象論は存在するけれども、本質論はなかなか見あたらない。
「なぜ感動するのか」を問われても、感動する理由を説明できず、感動するからそうなのだと終わってしまう。
また、そんなことを考えるより感動することが重要なのだとはぐらかされてしまう。
今回の私たち空知の研究では、ここに切り込んでいこうとしています。
ここに切り込んでの研究は今のところ見あたりません。
だからこそ、自分たちで考え、提案していくしかないのです。
提案して、様々な方から意見をもらって、修正を加えてよりよいものにしていくしかないと考えています。

You Tubeでのホロヴィッツの演奏を試聴して私は感動のわき起こる状態を5つにまとめてみました。
①演奏者の表現(技術面や感情面)のすばらしさにふれたとき
②好きな曲、好きな演奏、好きな作曲者など自分の価値観と一致したとき
③曲や演奏の美しさにふれたとき
④音楽によって過去の記憶や思い出が呼び覚まされたとき
⑤これまでに体験したことのない曲や演奏に出会ったとき

前述の福田正治氏は、進化論的感情仮説で情動・感情を4つの階層にわけてとらえ、その4つが協働して働くときに「感動」がわき上がるとしています。
その4つの階層(4つの分析器)とは・・・
①原始情動(視床下部)~体性感覚を通した振動、動きなど
②基本情動(大脳辺縁系)~強弱、テンポ、変化など
③社会的感動(旁辺縁系)~共感、相互コミュニケーションなど
④知的感情(前頭前野)~メロディーなどの文法、技法、独創、時代の道具など
この感情の階層性の成熟度が感動に大きく関係しているといえます。
自分が感じた精一杯の感動を音や体で表現していても、単純な原始情動と基本情動を含んだ音だけでは「未熟」となります。
また、技法だけを含みそこに原始情動や基本情動の成分がなければ、「心がこもってない」となる。
真に感動させるためには4つの階層(分析器)のそれなりの活性化が必要であり、感動とはこれら4種類の情動・感情がバランスよく含まれ、深め、成熟したところにあるかもしれない、としています。

ちょっと難しいですが、かなり私たちの考えようとしているものに近いと思うのですが・・・。
みなさんの持っている情報で何かありませんか?

子育て地獄。。。

P1000300 「あいちゃん」が亡くなってから一週間。
何となく、まだ「あいちゃん」がそこら辺にいる感覚がずっとありました。
家に帰ってくると待っているような・・・。
どこかの部屋の陰から出てくるような・・・。
まだまだ「あいちゃん」のことが忘れられない毎日でしたsweat02

そんな寂しい日々の生活でしたが、偶然にも我が家に一匹の猫が来ることになりましたcat
5月18日生まれ、生後35日の子猫です。
チンチラとアメリカンショートヘアーを両親に持つ猫です。
血統書付きの両親から生まれたのですが、純血でないために我が家に来ることになりました。
「一匹と言わず・・・」と言われたのですが我が家でそれは無理なので・・・。
「あいちゃん」が亡くなってから間もないので悩んだのですが、これも縁と考え引き取ることにしたのです。
名前は「カイ」くんです。
「あい」に響きが似ているのと、「ピアノの森」の「一ノ瀬海」にちなんで名付けました。
でも、まだ自分の名前だとはっきりわかっていないようです。
生後35日とは言え、今の時点で「あいちゃん」の2倍の大きさです。
ということは「あいちゃん」は生後2週間ぐらいで捨てられたのかな、と思ったりしています。
それぞれの猫にもそれぞれの人生があるのだなあ・・・と。
(猫も人生でいいのかな? )

「カイくん」が来てから今日で5日目です。
その間、毎日寝不足ですcoldsweats02
猫はとにかく夜行性。
私が寝てから活発に行動を開始しますmoon2
寝ている私の指をかじったり手をひっかいたりしてじゃれます。
そうかと思えば、お腹のあたりにころんと寝転がったり、枕に乗っかってきて耳元でごろごろ言ったり、カツラのように頭にかぶさって寝たりします・・・。
とにかく人なつっこい猫で、人間にぴったりとくっついていないと寂しくて仕方ないようです。
そんなこんなで夜中に3~4回、必ず起こされるのです。
表現は悪いのですが、「子育て地獄」みたいです・・・。
元気がよくてぶっ飛んで走り回っています。
仕事をしているコンピュータのキーボードの上を平気で歩きます。
背中を駆け上がったり、足から肩まで一気に登ったりもします・・・upwardright
その痛いこと、痛いこと。
足も手も傷だらけです。
愛情表現なのでしょうが、けっこう行動は過激です。
「あいちゃん」は女の子でしたが、「カイ君」は男の子。
差別ではありませんが、やはり「カイ君」の方が活発な感じがします。

いつになったら寝不足から解消されるのかなあ・・・。
夜が暑くなってきているので夏バテも心配です。

文化的側面

今日は、先週の金曜日に雨で延期となっていた写生会の日でした。
朝は曇りで涼しかったものの、だんだんと気温が上昇し、かなり暑い日となりましたsun

この写生会に向けて、深川の東州館の渡辺館長に絵画教室をお願いしました。
「絵というのは、自分の感じたことや思いをこめて描かれたものが一番すばらしい。写真の通りに描くなんて一番愚かなこと。」と渡辺館長は子どもたちに訴えかけます。
しかし、その感じたことや思いを表現する方法をある程度知らなくては形になりません。
どうやったら形にすることができるのか。
その技法の部分をわかりやすく指導してくれました。
(これって、音楽科教育にも通じるでしょ?)
本当に立体的な建物を描く方法が身につくんですよ。
プリントもあるので、読んでみたいという方は連絡ください。

その指導の中で、地平線の話がとても興味深かったです。
風景画を描くときには、横一本の線、地平線をまず最初に描きます。
その水平線のとり方が民族によって違うというのです。
オランダの画家や日本人の画家など、土地の狭いところに住んでいる民族は地平線を上の方に描く傾向にあるそうです。
土地の狭いところに住んでいるために大地の大切さを知っているからだとか。
空をいっぱい描くか、地面をいっぱい描くか・・・。
「そんなこと」と思えますが、実はその民族の長い歴史に根ざして自然と身についたものと言えるのでしょう。
文化というのは知らず知らずのうちに、その画家の背景をしっかり形づくっているのですね。

音楽にも同じことが言えます。
旋律やリズム、和声や音色・・・などなど、音楽を形づくっているものはその民族固有の長年の歴史からできあがったものと言えるでしょう。
それらは、長い年月をかけて知らず知らずのうちに作曲家の背景として身につき、根付いているのだと言えます。
楽曲や演奏を聞いて時代や国などがある程度推測できるのは、文化的側面の特徴が知らず知らずのうちに表現されているからなのでしょう。
文化的側面を指導するときは、どちらが優れているかという視点ではなく、お互いのよさとか差異を認めあえるようにしたいものですね。

渡辺館長とは個人的にお話をする機会も多いのです。
こんなことを話したこともあります。
美術科教育での最近の悩みは「よく見ていない」と言うことだそうです。
じっくりとじっくりと見て描いていない。
よく見ると、直線だと思っていたものが実はゆったりとした斜線であったり、同じ色に見えていたものが実は微妙に変化していたり・・・。
見てどれだけ気づくことができるか、ということが大切なのだと。
見ることがしっかりとできれば、表現することにつながるのだそうです。
私の方は、音楽科教育での最近の悩みは「よく聴いていない」ことと伝えました。
じっくりじっくりと音楽に耳を傾けていない。
何となくは聞いているけれども、音の変化に気づく所までは聴けていない。
同じ旋律だと思っていたものが微妙に速度や強弱が違っていたり、音色が変化していたり・・・。
しっかりと聞けていないから、自分の表現に取り入れることもできない。
美術と音楽ってけっこうにているなあ、と二人で納得するのですが・・・。

「マリア・カラス」

BS-hiで「マリア・カラス」のドキュメンタリーをやっていました。
1974年11月11日、札幌厚生年金会館での演奏会の映像も流れていて興味深いものがありました。
それが生涯最後の演奏会だったとは・・・。
その後、1977年9月16日、パリで53歳でなくなるまでの3年間はどんな生活だったのでしょう?

番組を見ていて感じたのは・・・
最後の演奏会で協演したテノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファノとの最後の恋、資産家アリストテレス・オナシスとの恋愛・・・あまりにもスキャンダルに焦点を当てすぎていたような気がします。
最大の当たり役と言われている「トスカ」。
そのなかで「歌に生き、恋に生き」と歌うのですから、そこに注目が集まりやすかったのかもしれませんが・・・。
でも、もっともっとマリア・カラスの音楽面、芸術面の功績に光が当たってもよいのではないでしょうか?
そんな番組作りがあってもよかったと思います。

ミラノ・スカラ座でのヴェルディ作曲「椿姫」のできがあまりにもすばらしすぎたために、ミラノの聴衆はカラス以外のヴィオレッタを認めませんでした。
1957年、そのミラノでカラヤンがフレー二とともに上演したものの大失敗をしてしまい、それ以後カラヤンは「椿姫」を指揮することは二度とありませんでいた。
スカラ座でも「椿姫」には「カラスの呪い」がかけられているとして1990年まで上演されることはありませんでした。
それぐらい強烈な印象を人々に残した歌手だったのでしょう。
残念ながら、マリアカラスの絶頂期はそれほど長くはありません。
1955年頃がその絶頂期とされています。
レナータ・テバルディが全盛の時代、そのテバルディに勝利したとも言われている年です。
1923年生まれですから、なんと32歳!
私にはまだまだ若いと思えます。
1957年には体調不良が重なったり、声の調子が悪くなったりとオペラのキャンセルが多くなり、コンサートが増えてきます。
あまりにも早いオペラからの第一線からの撤退だと思います。
ライヴァルたちからの嫌がらせにも一因があるということですが・・・。
トップを守るというのは並大抵ではないんですね。
周りの人間にはわからないかなりの努力が必要なのでしょう。
その悲哀が伝わってくるような感じがします。

秩父別のローズガーデンで見た「マリア・カラス」という鮮やかなピンクのバラ。
本当にそれが思い浮かびます。
「夢街」に写真が載ってます。

続・大人の勉強法

前回の続きです。

記憶を向上させるための方法が三つ紹介されていました。
①五感に訴える
 記憶は脳の大脳皮質にある側頭連合野に蓄えられる。この部分は視覚や聴覚といった五感や、自分の行動する動機や心的態度など様々な機能を統合する場所である。
 この連合野に記憶を定着させるためには、いろんな機能から働きかけることが有効。
 声を出して読むとか、見ないで思い出しながら書くとか・・・五感をフルに使って何度も繰り返すこと。

②朝は記憶のゴールデンタイム
 脳は日中に受けた様々な刺激を、夜の睡眠時に整理しようとする。
 睡眠をとることで記憶は定着され、そして朝には再びクリアーな状態に戻されている。
 このことから、朝が一番脳の働きがよい状態となる。
 また、睡眠をとらないと脳の中には未整理の情報があふれかえってしまう。

③興味を抱いたその瞬間を逃さない
 わからないことや知らないことが出てきたとき、ついついそれを後回しにしがち。
 でも、「これは何だろう」と疑問を抱いたときこそ、脳がその答えを欲している瞬間。つまりは、脳の反応の鮮度が一番高いとき。
 そのときにすぐに調べて、脳に答えを与えてあげると記憶力は格段に向上する。

そのほかにも二つ次のような記事が出ていました。
①「創造性」は、経験と意欲から生まれる
 人は生きていく中で多くの経験をする。その経験が脳の中の側頭葉にどんどん蓄積される。
 知識であるとか、人間関係のノウハウであるとか、いろんな人生経験が蓄積される。
 その経験や知識を、前頭葉の中で生まれる意欲や価値観というものが引き出してくれる。
 それこそが「創造力」である。

②人生は、すべてが勉強
 人間は年を重ねても学び続ける存在である。
 学生時代の勉強と大人になってからの勉強では勉強の質が違う。
 学生時代には教科書などがあり、正解がある。しかも採点くれる人がいる場合が多い。しかし、大人になってからの勉強には教科書がない。正解もなければ、採点してくれる人もいないに等しい。
 人に対する心配り、人と人との関係の中で生まれる悩みやよろこび・・・。
 それらはすべて勉強といえるものであり、学ぶべきこと、知るべきことは際限なくある。自分が意識しなくとも、脳は常に学び続けている。
 意欲がもてないときには好きなことを見つけ、始めること。そうすることで脳の中でよろこびの回路が動き始める。
 この回路が動き出せば、いやなことや苦手なことにもチャレンジしようという意欲が自然に生まれてくる。

人間は何歳になっても学ぶことができる。
なんだか自信がわいてきますねgood

大人の勉強法

PHP7月号の特集に脳科学者の茂木健一郎さんの特集記事が載っていました。
気になるところを抜き出していくと・・・。

人間の脳の中には「ドーパミン」と言われる快感を生み出す分泌物質がある。
たとえば勉強していて難しい問題が解けた瞬間など、とてもうれしい気持ちになる。
そんなときにドーパミンは分泌されている。
その快感を得ている状態は鮮明に脳に記憶され、それを再現しようと脳の中に新しい回路が生まれる。
そのことにより、快感を生み出す行動が次第に癖となり、続けていくことで上達していく。
これが学習のメカニズムである。

ある教科が苦手なとき、「自分には生まれつき○○の才能がない」と決めつけ、あきらめてしまう人がいる。
でも、それは本当に生まれつきの才能ではなく、その勉強をしていて快感を覚えた記憶が少ないから苦手教科と思ってしまっているだけ。
楽しくないからポジティブに考え、嫌々やっているから成果も生まれず、結果として苦手になる。
脳を活発に働かせるためには、自発性と積極性が必要である。
だからこそ、人から認められたり、ほめられることによってできあがる「よろこびの回路」が大切となる。
脳はより高い目標を達成したときに大きな快感を得るようにできており、そのチャレンジ精神を支えているのが「よろこびの回路」である。

①脳に負荷をかけよう。
 脳というものは常に苦しい刺激を求めている。自分の力量よりも少し高いところを目指し、それが成功したときに喜びを感じる。楽にできることを成功させても、脳は快感を得ない。
 また、他人から強制されたのでは単なる苦痛にしかならない。やる気というのは強制されて生まれるものではなく、自分自身で工夫して脳に負荷をかけることで生まれる。
 その負荷も、他人と比較するのではなく、自分にあったペースで、自分なりの負荷をかけていくことが大切。

②集中力を手にいれる
 集中力は三つの要素からなる。
 一つめは、スピード。問題を解くスピードを極限まで速くする。
 二つめは、分量。とにかく圧倒的な分量の問題を解くこと。
 三つめは、没入感。周囲の雑音が一切入らないくらい夢中になること。
この三つを手に入れることができると、時間を有効に活用することができ、短時間でも内容の濃い勉強ができる。

③弱点こそが武器になる
 脳のメカニズムからすると、人は弱点を克服しようと努力するときに極めて高いモチベーションを発揮する。徐々にそれを克服していくにつれて、脳内のドーパミンもより多く分泌される。得意分野を伸ばしているとき以上に不得意分野に立ち向かっているときの方がよろこびを感じる。
 仕事や勉強のできない人の多くは、失敗しても見て見ぬふりをする。自分の失敗を認めたくないから・・・。でも、実は自分の弱点に気づいたり、失敗したときにこそ、脳を活性化させるチャンスはある。自分のミスをしっかりと振り返り、すぐに修正していくという作業を積み重ねていくことで脳はたくさんのことを学習していくからである。

記事はもう少し長いのですが続きはまたこの次に・・・。
ここまで読んだだけでも、「よろこび・楽しさ」がどれほど大切なことかがわかりますよね。
しかも、その「よろこび・楽しさ」を生じさせるためには負荷が必要なんですね。
私たちの大会主題にこのことは生きていると思います。

掲示板

ブログの記事に対してのコメントばかりではなく、それぞれの方々の考えや思いを交流する掲示板を試しに作ってみました。
どんなものですかね?
アドレスは次のようになっています。
もしくは、ブログの左横、「よく行くサイト」の「心より心へ 掲示板」をクリックしてもそのページが出てきます。
また、携帯からも書き込みができるようにしておきました。
話題も音楽科教育だけではなくて、どんな内容でもかまいません!

http://8322.teacup.com/nishiatsu/bbs

それにしても。。。
レンタルの掲示板なので仕方ないのですが、勝手に出てくる広告は何とかならないのかなあ・・・。
全く必要のないものなので困っていますcrying
無料なので文句は言えないのですが・・・
と言うことで掲示板を違う会社(teacup)のものに換えました。
あまりにも広告の内容がひどかったので。
先に登録された方、ごめんなさい。.
この記事に出ているアドレスで大丈夫です。

読破!

本を読むスピードがすごく遅い私です。
それはどの本を読んでも同じです。
「カラマーゾフの兄弟」も昨日の夜読み終わりました。
まとまった読書の時間をとれなかったというのもありますが・・・。

この「カラマーゾフの兄弟」、本編全部を足すと約2200ページになるのかな。
その膨大な情報量にもかかわらず、細部に一貫性があります。
まるで完成度の高い音楽作品のようです。
時間の進行、見落としてしまいそうな登場人物の些細な発言が次の事件につながっていく連結性・・・などなど。
ドストエフスキーの神経が隅から隅まで行き渡っています。
読んでいるときにはこの流れしかない、と言うようなごく自然な流れなのですが、そこに達するための作者の努力や工夫は並大抵のものではなかったことでしょう。
恣意的なものの中に自然さが表現されていくというか、自然なものに見えるまで徹底して恣意的なことにこだわっているというか・・・。
ドストエフスキーは用意周到に図で表現したり、メモを並べ替えて比較したりしながら一貫性を持たせていったのだと思います。
何回も読み直して書き換えたりしたこともあったんじゃないかな。
その作業は膨大のものだったことでしょう。
あくまで、私の想像でしかないのですが。

ちょっと話はそれますが、天才と言われる方々はどんなことも簡単に乗り越えているようにとらえられがちです。
天才と言われているモーツアルトにはこんな手紙が残されています。
「『ヴォルフガング、忘れちゃ行けないよ、皆が君のような才能の持ち主ではないんだ。君にとっては何もかもが簡単すぎるんだ』と言うのです。『簡単だって!』と僕は言い返しました。みんなそんな風に思っているのです。(中略)作曲はまるっきり違う問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他に一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは、精力的な思考と、何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」
天才の域に達するのは生まれつきの才能や運だけではないのです。
私たち以上に血のにじむような努力の末に天才と言われるようになっているのだと。
だから「君は特別」は失礼な発言なのでしょうね。
努力していない人間の言葉でしかないんだろうなあ。

さて、「カラマーゾフの兄弟」に戻って。
読み終えた感想は・・・
とにかく生きることが大切だということです。
苦しいことがあろうが、悲しいことがあろうが、うれしいことがあろうが・・・とにかく生きていくことの大切さが伝わってきます。
生きていくことによって浄化されていく、そういうことなんだと。
この後は「カラマーゾフの兄弟 続編を空想する」「ドストエフスキー 謎とちから」という本を読んでいきます。

金曜日の夜からは好きなことをしてましたscissors
まずは、岩見沢の「三船」で焼き鳥beer
昔からの仲間と思う存分語り合って、かつ飲んで食べて、楽しい時間でした。
昨日と今日は読書三昧book
ひげも剃らず、パジャマ姿のままです。
休日はいつもこんな格好です。
保護者や生徒が用事で来てもこの姿のままで対応するので、みんなビックリします。
誰に気兼ねすることもなく、思いっきりダラッとするのが最高なんです。
夕方には砂川の小山商店からメールが入り・・・。
「貴 微発泡夏の純米酒」なるものが入荷したとの知らせbottle
給料の後でお金moneybagにも少し余裕があったので買い求めに行きました。
おいしいお酒でした。

100%って・・・

ある授業前のことです。
うちの学校は忘れ物をしたら授業前に言いにくることになっています。
私の斜め向かいの先生の所に生徒が来ました。
「先生、教科書がありません。」
「わすれたのか?」
「いえ、○○教室の棚においておいたのになくなっていました。」
「家に忘れてきたとかそういうことはないの?」
「そんなことはありません。100パーセント自信があります。」
「もう一回かばんとか探してみたら?」
「絶対に○○教室に置いておいたので誰かが持っていったか、隠したんだと思います。確実に置きました、自信があります。」
「そうか・・・そこまで自信を持って言うのならわかったよ。先生の方でも探しておくわ。」
職員室でこんなやりとりがありました。

そして放課後・・・
別な用事があったので、その○○教室に行ってみるとその子どもの教科書が棚にちゃんとあるではありませんか!
「これってなくなったと言っていた教科書だよな」、そう思って担任の先生に伝えました。
すぐにその子どもが職員室の私の所に来ました。
「なくなったって言っていた教科書、○○教室の棚にあったよ。自分でよく探してみたのかい?」
私はその子どもの探し方が悪くて自分で発見できなかったのだと思ったのです。
すると・・・
「いえ、自分のかばんの中にあったので棚に戻しておいたんです。」と言うじゃありませんかbomb
「お前、さっき100%○○教室に置いておいた。しかも、自信ありますって言っただろう。
しかも、まわりの仲間が隠したようなことまで言って。人を疑う前にどうして自分のかばんとかを探してみたりしなかったんだ。」と怒りましたpout
どうしてすぐに人のせいにするのでしょう?
そんな子どもが増えてきたかなあ、なんて思います。

しかも、その子どもは100%って言ったんですよ!
100%って、十割と完全とか言う意味ですよね?
子どもたちの感覚は違うのでしょうか?
最近スポーツ番組でも「120%の全力で」とか「200%の力を出し切って」などと頻繁に使われるので100パーセントの意味が薄れてきているのかな・・・。
「100%」って言われたら実は「50%」を意味しているのかもしれません。
なんだか笑えるような笑えないような・・・coldsweats02
100パーセントっていつからそんなに軽くなったんですかね・・・。  

  

今から、ここから!

今日は南美唄中学校で全空知音楽教育連盟の研修会でした。

急に決まった研究会にもかかわらず、嫌な顔をせずに引き受けてくれた野村先生、本当にありがとうございました。
事情のわからない方にとってはいつもの研修会に見えたかもしれません。
ここまでくるのが大変だったのです。
授業は指導者によっていろいろ迫り方があります。
今日の授業はパイプオルガンの音色に徹底的にこだわった授業でした。
本物のパイプが出てきたり、自作のビデオが出てきたり、興味深い内容でした。
野村先生も言われていましたが、今日のねらいからすると「小フーガ」でなくてもよかったかもしれませんね。
帰りがけにYou Tubeの話をしたところ、興味深い情報を得てさっそく見てみました。
「小フーガ」で検索すると、初音ミクのうたった「小フーガ」が出てきました。
おもしろいです。
4声のフーガが3声にとらえられてしまう危険性はありますが、フーガの特徴をしっかりととらえています。
授業でバッチリ使えます(ダウンロードの方法も知っているし・・・知りたい方は連絡ください)。
「6声のリチェルカーレ」が傑作です。
野村さんの授業に触発されて、9月か10月に「小フーガの授業をやります。
言ってしまったら逃げることはできません。
自分を追い込んでみました。
興味のある方は見に来てください。

授業以外に総会もありました。
総会で新役員が決定し、来年度の全道音研に向けての役員体制も承認されました。
授業者も決定しました。
大会主題案も提案され、その研究もスタートします。
大会主題は、「わかる楽しさ・できるよろこび・わかちあう感動~『響感』をはぐくむ音楽学習の創造~」です。
これまでの大会主題をベースに、それをさらにバージョンアップし、乗り越えていこうとする思いがこもった研究主題です。
いきなり12ページの文書を読んでつらかったと思います。
眠たそうな方も多数いました・・・眠くなって当然なんですよ。。。
私は作った立場なので、どこに何が書かれているかがわかっているから読み進めることができるのですが、初めての方にとってはそうはいかないと思います。
ましてや、まだ私自身のものになっていないので伝わりにくかったかと。
主題の提案だけでよかったかなあ・・・反省しています。

もしかしたら取り組みは遅れているのかもしれません。
推進日程もわかりにくいものかもしれません。
何をこれからしていいものか想像もつかないかもしれません。
先が見えないので不安になっているかもしれません。
文句を言いたいところはたくさんあることでしょう。
でも、「今から、ここから」スタートするしかないのです。
「もっとああすれば、もっとこうすれば」いろいろあります。
役員の方々も初めての方が多かったりして忘れていることがたくさんあるかもしれません。
批判は大いにけっこうです。
でも、それだけで終わらせないでください。
どうすればうまくいくか意見を伝えてください。
批判はすごくかっこいいです。
周りの人のやることはすごく短所などがたくさん見えます。
いざ、自分がやるとなるとなかなか見えないものです。
だからこそ、お互い批判しあって助け合うことが必要なのです。
誰かに任せっぱなしにしないでください。
任せっぱなしにしておいて批判だけするのではなく、その分自分のやれることを手伝っていきましょう。
前回の大会も最初は大変でした。
回数を重ねることによって気持ちも盛り上がり、「何とかするしかない」という方でいっぱいになったのです。
今は何も見えない一番不安なとき。
苦しいけれどもここをしっかりと乗り越えましょう。
どんな失敗だって最後に成功すれば笑い話になります。
研究大会が終わった後にみんなで肩を組んでたたえ合うことができるように。
決して投げ出さず、ほっぽり出さず、どうすればよりよくなるかをともに考えていきましょう!

続・大会主題案

明日、6月19日が大会主題案を提案する日です。
これまでいろんな方から寄せられた意見を参考に改訂作業に取り組んできました。
まだまだ手直ししたい部分はあるのですが、今回は次のもので提案します。
文章のつながりもかなり悪いです。
もっともっと『響感』のフィルターを通したかったのですが、いまいち徹底されていません。
まだまだ改良の余地があります。
みなさんの意見をたくさん聞かせてください。
コメントだと書きにくいですかね・・・掲示板の方がいいのかなあ・・・そういう問題じゃないのかも。

前回は一太郎ファイルで掲載しました。
ですが、それでは開けない方が多数いることがわかり、今回はPDFファイルにしてみました。
そんなことができるのも一太郎の便利さです(回し者ではありません・・・念のため)。

「syudaiann.pdf」をダウンロード

本当はもう少し取り組みたいのですが、腰痛が再発してしまい、これ以上進めることを断念せざるを得ない状況となりました。
昨日、中体連卓球大会の監督会議に出かけるために長時間車を運転したのがいけなかったのでしょうか?
明日悪化していませんように。
主題案に話題を戻します。
頭の中、そして手書きでは『響感』の図と「感性」の図と「わかる・できる・わかちあう」の図の一体化案ができあがっています。
それをコンピュータに打ち込むだけなのですが・・・。
得意な方・・・誰か手伝ってくれないですかね・・・think

家に帰ってくると、あいちゃんがまだいるような気がします。
元気なときには、必ず私の帰りを玄関で待っていてくれました。
出かけて帰ってきたときには、寂しさからか大きな声で「ぴゃう~」とないていました。
なでると、ごろごろと大きく喉を鳴らしてくれました。
仕事場で仕事をしたり、音楽を聞いていると必ず私の足下で寝ていました。
でも、布団の嫌いな猫だったので一緒には寝てくれませんでした。
くりくりとしたこぼれるような大きな目が印象的でした。
心にぽっかりと穴が開いたようです。
でも、あいちゃんの分もよりよく生きていかなければ!

安らかな最期

今朝、猫のあいちゃんが亡くなりました。
享年14歳。
静かな静かな最期でした。
14年前の6月25日、深川市の生徒指導視察研修から帰ってきたときに拾った猫です。
そのときには手のひらにのる大きさでした。
だから生まれたのは5月だと思うのです。
元気なときには去勢の影響で6㎏あった体重でしたが、亡くなったときはガラガラにやせていました。

脳に腫瘍ができ、病院で診てもらったところ、余命6ヶ月と診断されたのが昨年の6月。
手術をしても今のペット医療では完治が難しく、痙攣が残ると言われたので手術はあきらめました。
脳の腫れを抑える薬での治療となり、そのおかげもあって余命をこえて1年間がんばりました。
家族同様に暮らしてきた猫なので、その死に納得はできません。
でも、1年間の看病をすることによって気持ちの整理みたいなものをつけることはできました。
1年間かけてゆっくりゆっくりお別れの準備ができるように、あいちゃんが作ってくれた時間なのでしょう。
大切に大切にその時間を過ごしてきました。
ありがたかったです。

二週間前から急にご飯を食べなくなり、ほんの少しのご飯と水だけで生きてきました。
歩くこともできなくなり、トイレもおむつで。
感情もないようでずっと猫特有のゴロゴロ言う声も聞くことができませんでした。
ところが、一週間前に頭をなでているとゴロゴロとないたのです。
驚いたのと、うれしかったのと・・・。
でも、そのときに何となく死期が近いことがわかりました。
最後の力を振り絞って、お礼を伝えているんだと受け止めました。
本当にかわいい猫だなあ、としみじみ思います。
私の方も「今までありがとう」とお礼を伝えました。
昨日はもう目に輝きがなくなっていました。
手も何となく冷たく感じました。
においもしていたので、きっと内蔵も動きを止めて腐敗し始めていたのかもしれません。
今朝早く、小さい鳴き声とくしゃみのようなものをしていたので「生きているな」と安心していたのですが・・・。
その後、起きてあいちゃんを確認したときには息をしていませんでした。
最期の声だったのでしょう。
苦しむこともなく、安らかな死でした。
それが唯一の救いかな・・・。

赤平市幌岡の「ねむのんの森」に埋葬をお願いします。
私は転勤して歩くので一カ所に安置できる方がよいと考えました。
大好きな樺戸山の麓とも考えましたが・・・。

頭の中で鳴り響いているのは、シェーンベルク作曲の6つのピアノ小品OP.19の第6曲目。
マーラーの死に際して1911年に書かれた曲です。
シェーンベルクにとってマーラーの死は大きなショックだったようで、絵も残しています。
鐘の音を模した響きの中にマーラーの第9交響曲の響きがします。
楽譜もあるのであいちゃんのために弾こうと思います。

悲しんでばかりもいられないですね。。。

余力を残した仕事

仕事の話を書くことが多いので、私の体調を心配して声をかけてくれる方がいます。
メールであったり、電話であったり、会ったときの声かけであったり・・・伝えてくれる方法はさまざまです。
方法なんか関係なく、その人なりの一言一言が本当に心に染みわたります。
やさしい言葉をかけてもらうと、いつも心がホッとします。
相手の方の心のやさしさにふれた思いがするのです。
次も頑張ろう、やってよかったという気持ちが心の中に生まれて元気が出てきます。
言葉に表して伝えるって大切ですよね。

いつも忙しそうなことを書いていたりしていますが・・・実は根を詰めて仕事をすることなんてほとんどありません。
(せっかく心配してくれている方に申し訳ないのですがsweat02。)
私は必ず余力を残した仕事をします。
なぜなら、無理をして仕事をすると必ずその反動が来てしまうので。
1時間無理をすると1時間、一週間無理をすると一週間、1年間無理をすると一年間・・・無理をした分と同じだけの休みが必要になってしまいます。
それに余力がなくなるまで仕事をしてしまうと、自分を磨く時間がなくなってしまうのです。
新しい何かを見つける自分にとっての楽しい時間がなくなってしまいす。
そんな仕事をしていては自分の成長が止まってしまいますよね。
根を詰めてやり遂げた仕事も、余力を残してやり遂げた仕事も力を入れるポイントとタイミングを外さなければ私の場合はそれほど差はないです。
ただし、どの仕事も取り組んでいるときは真剣にやりますよ!
余力を残すことと不真面目に手抜きをすることとは違うので。

私には人との会話が必要です(このブログに書くことやメールも会話の一つです)。
話をしていくうちにアイディアがひらめいたり、考えがまとまったりするのです。
自分の知らない世界を知ることができるし、自分以外の人間のすごさも実感できます。
人と話ができなくなるほど、私にとって恐ろしいことはありません。
会話がない日を過ごすと仕事が全く進みません。

そして、大好きな音楽に触れる時間も必要です(他にも読書やら散歩やら花を見ることやらお酒やら・・・好きなことはたくさんありますがcatface)。
胡弓奏者の若林美智子さんのアルバム「哀の調べ~風の盆の里より」がけっこうお気に入りです。
胡弓の音色がいいんですよね!
私の仲間にも胡弓が大好きという方がいます。
そのアルバムの中でも「宵待草」が大好きです。
竹久夢二が作ったあの有名な詩につけられた旋律です。

待てど
 暮らせど 
  こぬ人を

宵待草の
   やるせなさ

今宵は月も
   出ぬそうな

数年前、アコーディオンの伴奏でシャンソン風に歌うこの歌がCMで流れていました。
それが欲しくて欲しくてかなり探したのですが見あたらず・・・。
持っている方がいたら連絡ください。
今日は雨降りで、この歌の通りに月も出ないようです・・・。

夢として

私にとって、全空知音楽教育連盟の研究は仕事ではありません。
自分のやりたいことであり、大好きなことであり、「夢」です。
一人でも多くの子どもが音楽を好きになってくれれば・・・そのために自分に何ができるのかを探し続けています。
自分を磨くよい機会となっています。
そして、自分の考えていることに一人でも共感してくれる人が出てくれれば、と願っています。
そのための苦労は苦労に感じることはありません。
「これだけやっているのに・・・」と昔は考えることもありましたが、音楽科教育に関してはほとんどありません。
「やってやってるのに」という気持ちは音楽科教育に関しては全くありません。
私の存在はちっぽけなもので、私がやっていることもたいしたものではありません。
でも、何かしら周りの方々に響いてくれるものがあることを信じて表現し続けています。
私が動くことで何かが変わってくれれば・・・。
だからお願いされたことは極力引き受けることにしています。
自分の考えを訴えるよい機会になるので。
もしかしたら、私にだまされる方が一人でも出てくるかもしれないので・・・bleah

でも、最近は自分の力量のなさに辟易してしまうことがいっぱいあります。
的確な言葉がぱっと思いつかないのです。
文章自体に硬直感があり、行間に心がないような気がします。
自分のやれることって実はある程度決まっているのだと思います。
だからこそ仲間が大切なわけで。
きつい言葉で話してしまう私を見捨てないで見守ってくれる仲間が本当にありがたいです。
人と話をすることによって自分の考えがまとまることが多いので大切な時間となります。
内にこもっていくとアイディアが浮かばなくなってしまうので。

昨日は会議から帰ってきて気になる部分を訂正した後、映画「スウィニー・トッド」を見ました。
自分のご褒美に会議が終わるまでとっておいたのです。
ブロードウェイ史上、最もブラックなミュージカルと言われています。
ラストが原作と違うようです。
感想は・・・残酷なシーンが多いのにその部分の印象は薄いのです。
残虐なシーンが滑稽なのです(こんな書き方をすると不謹慎と思われる方もいるかもしれませんが・・・)。
人間の心の動きの方が強く残っています。
よくできたミュージカルだと思います。
オペラの要素を取り入れたミュージカルと評価を受けています。
ぜひ、スピーカーをつないで視聴することをオススメします。
一瞬、「オペラ座の怪人」と感じてしまうときもあります。
詳しくは書きません。
興味のある方はぜひ見てください。

充実した一日

6月19日の南美唄中学校の研究会で第51回北海道音楽教育研究大会空知大会の大会主題案を提示します。
これからの1年間をかけて何を研究していくのかを表現した大切なものです。
ただし、今回で「本決め!」ではなく、来年の春までじっくり時間をかけて練り上げていきます。
その出発点となるものを仲間と検討してみました。

用事があるのに途中まで参加してくれた方、いろんな用事が重なっているにもかかわらずその合間をぬって参加してくれた方、遅れてでも参加してくれた方、お子さんと一緒に参加してくれた方、仕上げなくてはならない書類があるのにその時間を割いて参加してくれた方、声が出ないにもかかわらず助言に来てくれた方・・・本当にたくさんの方々の思いが響きわたる貴重な時間でした。
それぞれ抱いている思いはさまざまだけれども、その違いを含めて響き合わせることのなんと楽しいことか。
方向性は見えてているのに頭の中で図を整理できなくてパニックになる場面もありましたが、そういうことを通して考えが一つにまとまっていくんですよね。
みんなの思いをまとめてみたものの、私の力量ではみんなの思いをくみ取って表現することができずイライラしたと思います。
それを一つひとつていねいに指摘してくれたことに感謝します。
小学校の先生も中学校の先生も混じった中で話し合いをすることができるのも空知の大きな財産ですよね。
前回の大会の時もそうでしたが、いろんな人たちのいろんな苦労や努力があって大会は成り立っています。
きれい事ではすまないものです。
この苦労や努力を知らないで、おいしいところだけもらおうなんて考えている人にはほとんど財産は残りません。
できる人にだけ任せておけばいいや、という人にも財産は残りません。
逃げ腰でいる方はいつまでも逃げ腰のままになってしまいます。
それぞれの人が持っているものをほんのちょっとでいいのです。
出し合ってよりよいものを作り上げませんか?
一つのことを身につけるにはそれなりの時間と苦労、努力が必要になってきます。
そこから逃げずにみんなで力を合わせていきましょう!
言葉ではなく、行動で!

大会主題案を今日の話し合いをもとにもう一度作り直してみます。
一行の感想でもかまいません。
時間のあるときに何か伝えてください。
そうすることで今日頑張った仲間たちの努力と苦労が報われるのです。
今回の図の中には、2時間以上考えて作ったものも入っています。
でも、結果的にその図ではみんなの思いを表現し切れていなくてボツになってしまいました。
このことは、よりよいものを作り出すには大切な経過です。
「2時間かけて作った俺の努力が・・・」なんて考えてこだわっていたのではよいものはできあがりません。
思い切って捨てる勇気も必要です。
最終的によいものができあがること、そのことですべての苦労や努力は報われます。
だからこそ、よいものができあがるまで作り続けなければなりません。
自分が何をすべきかなのかが見えてきた一日でした。
よい一日をありがとうございました。

大会主題案

2009年9月18日(金)に第51回北海道音楽教育研究大会「空知大会」が行われます。
大会まで、いよいよ残り1年とちょっととなりました。
この大会に向けて大会主題案を練ってみました。
何人かの方々と相談し、これまでの学習会で出された意見を反映させて案としてまとめてみました。
まだまだ推敲が必要なのですが、たくさんの方々の意見を聞きながら完成させたいと考え、ここに載せてみました。

「syudai.jtd」をダウンロード

相談にのってくれた方々に感謝します。
ファイル形式は一太郎形式となっています。
6月19日(木)の南美唄中学校での研修会の時に連盟会員に提示します。
いきなり読んでも難しい部分があると思うので、事前に読んでいただけるとありがたいです。
また、コメントにみなさんのいろんな声を載せてください。
お待ちしていますhappy01

さて、私は文章を書くときにはまず、思いつくままに文章を書いていきます。
本から気になるところを抜き出したり、メモしておいたものを打ってみたり。
全体の構想が思い浮かぶまでそれを続けます。
最初に何を述べ、最後に何を言い切るのか・・・ここがしっかり見通せていないと文章としてまとめることができません。
というかすでに頭の中には文章全体ができあがっている状態でないと書くことができないのです。
残念ながら、思いつくままに最初から書いていくなんてことは私にはできません。
構想がしっかりできあがっていると、それにあわせて文章を入れ替えていきます。
頭の中にある全体の構想に合わせて文章の形をどんどん変えていきます。
最初は何を言いたいのか全くわからない文章の羅列です。
それが私の頭の中のフィルターを通すことにより、だんだんとつながりができ、文章の順番の必要性が出てきます。
さらに説明が必要な部分には文章を付け足したりして。
文章を統合する力が弱いと、支離滅裂な論文になってしまいます。
どの文章をどの部分にはめ込むのか、わかりやすい説明のために何を書けばいいのか・・・すべては私の頭が統合しています。
文章を書いていると、きっと作曲も同じなんだろうな、と思うことがあります。
文体は変わってもバックにある思想が変わらないシャコンヌ形式の文章。
序論で提示した主題を発展させていくソナタ形式の文章。
そんなことを想像しながら書いていくと楽しみも出てきますhappy01
みなさんはどんな文章の書き方をしているのでしょう?

13日の金曜日

作曲家の吉松さんのブログを見るとシェーンベルクの記事が。
そういえば、13日の金曜日に亡くなったんだっけ・・・coldsweats02
吉松さんの記事には76歳(7+6=13)で亡くなったと書いてあるけど、ものの本によると77歳という説も。
とにかく13という数字が大嫌いで、それを避けるように生活していたにもかかわらず最後の最後に13という数字につきまとわれたシェーンベルク。
1951年7月13日(金)、一日中家に引きこもっていたにもかかわらず、翌日まで13分watchという時間に突然のぜんそく発作でなくなってしまいます。
気にしすぎたんですかねthink

シェーンベルクと言えば、「調整を無視した、オクターブ内の12の音に均等の価値を持たせた」12音音楽の創始者。
同時代の作曲者からは「こんな音楽を書くくらいなら雪かきでもしていた方がましだ(R・シュトラウス)」「これは音楽というよりも工場みたいだ(ラヴェル)」なんて批判されてしまいます。
さらに弟子であるベルクには「調性の組織化が12音音楽ではできない」、その後の作曲家のブーレーズには「リズム面、強度の組織化が古くさい」と批判されています。
12音音楽に愛情を持っていたピアニストのグレン・グールド。
彼には「生まれたばかりの子どもの時から12音音楽ばかりを聞かせて育てたらどんな歌を歌うのだろう?感情は?」という発言があります。
グールドは「12音音楽も音楽だ」と主張したかったのでしょう。
余談になりますが、ブーレーズのピアノソナタ第2番を暗譜で弾くポリーニにも同様の発言があります。
「俺が暗譜できるのだから12音音楽は音楽だ」と。
二人とも「12音音楽は音楽といえるか」の質問に対しての答えだったと思います。
そんなグールドでさえも「シェーンベルクよりもウェーヴェルンの方が上」と批判しています。
かわいそうなシェーンベルク・・・。
でも、彼がいなかったら現代音楽は違う方向にいていたことを考えるとその功績は大きなものがあると思います。
とかく創始者、先駆者は批判の対象になりますから。
その批判があってそれに続く方々が力をつけていくので。

シェーンベルクの弟子たちは悲劇的な死を遂げます。
ベルクはアルマ・マーラー(マーラーの元妻)と2番目の夫グロピウスの娘マノン・グロピウスをかわいがっていました。
そのマノンの訃報に接し、ベルクはヴァイオリン協奏曲の作曲に着手します。
そして完成間近というときに虫に刺されてしまいます。
それがもとで悪性の腫瘍ができ、手術するも敗血症のため亡くなってしまいました。
1935年12月24日、50歳です。
そして、ウェーヴェルン。
娘の家に住んでいたときに喫煙のためにベランダに出ます。
たばこに火をつけたところをオーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解されその場で射殺されてしまいます。
1945年9月15日、62歳でした。

13日の金曜日にあれこれと考えることがありました。
何も起こらないことを祈りましょう。
まあ、日本人ですから・・・。
「13日の金曜日」を見てジェイソンにでも会いますかshock

心技体

仕事の合間に同僚から紹介された「You Tube」をのぞいてみました。
大好きなピアニストの「ホロヴィッツ」で検索すると出てくるわ、出てくるわeye
1965年の「ON TV」やら「ホワイトハウスコンサート」「カーネギーホールコンサート」「IN London」・・・。
お宝映像がどっさり・・・何でこんなに出ているの?
持っている人が世界のどこかにいるんですねshine
ショパンのワルツ、ソナタの第2番、バラード1番、そして「カルメン変奏曲」と視聴していきました・・・。
こころの揺さぶられること、感動という言葉の一言しか出てきません。
そのときにひらめいたのですが、音楽を聞いたときの感動は次のようなときに起こるのではないでしょうか(ひらめきなので意見を聞かせてください)。
①演奏者の表現(技術面や感情面)のすばらしさにふれたとき
②好きな曲、好きな演奏、好きな作曲者など自分の価値観と一致したとき
③曲や演奏の美しさにふれたとき
④音楽によって過去の記憶や思い出が呼び覚まされたとき
⑤これまでに体験したことのない曲や演奏に出会ったとき
これらが響きあったときに感動がわき起こるような気がするのです。
ホロヴィッツの演奏を試聴し終わったあと突然ひらめいたのが不思議でなりません。
でも、本当にすごい演奏でした。
絶妙な強弱、音と音のずれのすばらしさ・・・などなど。
涙が出たり、開いた口がふさがらなかったり、鳥肌が立ったり・・・。
悪魔と天使の存在する演奏、ピアノの魔神がぴったりです。
でも、②のように価値観が一致しないときには感動しないと思います。
ホロヴィッツの演奏が好きになれない方もいるので。

そして、その映像の中で演奏しているホロヴィッツは50代から60代の若さです。
まさに心技体が一番充実している時期。
年齢を重ね、亡くなる前の演奏も味わいがあり心に訴えるものがありました。
最後の最後まで充実した演奏を聞かせることってすごく難しいことです。
そのような演奏で終われることのなんとすばらしいことで幸せなことか。
「マエストロのラストコンサート」を読んでその感を強く持ちました。
トスカニーニせよ、バーンスタインにせよ、残念ながら演奏者としては幸せな最後でなかったので。
人生の最後まで演奏することが悲劇のような・・・。
演奏家の人生って厳しいなあ、と。

正しさよりも大切なもの

日本経済新聞の記事の抜粋から・・・

Aさんが旅先の観光案内所で紫陽花のきれいな場所について尋ねた時のこと。
自分の目の前の観光案内所の職員はこう答えました。
「もう咲いていませんよ。
時期が遅すぎます。
この先の山手に行かないと見られませんよ。」
尋ねたAさんは意気消沈し、事前に調べてからこなかったことを後悔したそうです。
ところが・・・
隣の窓口で同じ質問をする女性がいました。
すると、隣の窓口の観光案内所の職員は次のように返答しました。
「きれいに咲いていますよ。」
Aさんは自分の耳を疑い、次の話に耳を傾けました。
「この付近は終わっていますけど、山手まで行けばちょうど見頃です。」
尋ねた女性はとても喜んで、窓口の人にお礼を言いいました。

この話を読んでどう思いますか?
「紫陽花は山手の方で咲いている。」
Aさんの得た情報と、女性の得た情報は同じですよね?
それなのに、Aさんは落ち込んで後悔し、女性の方は喜んで感謝をした。
言っていることは間違っていなくても、その言い方が相手を傷つけることってありませんか?
私は言葉がきつい方で、しかもストレートに表現してしまいます。
しかも、「正しいことを言っているのがなぜ悪い。正しいことを言っているのに何で受け入れてくれないんだ。」なんて考えてしまいます。
熱意とか正論って、正しいだけにきつい時がありますものね。
正論であれば、熱意があれば、たとえ相手を傷つけようが間違ってはいない・・・。
正しいことなので確かにそうかもしれないけれども、そればかりではつらくなる方だっているはずです。
相手を傷つけてしまう正論、熱意がよい結果をもたらさない時だってあります。
ただ意見や情報を伝えるだけではなく、それを受け取る側の立場や気持ちを考えながら話す。
このことがもたらす結果の違いって大きいですよね。
それが、一緒にいて緊張をもたらす方と癒しをもたらす方の違いなのでしょう。
相手に対する気配りが、「正しさ」を超える場合もありますよね。
そんなことを心にとめながら話をしていくと、より多くの笑顔が花開くのでしょうね。
私も気をつけて話をするようにしなくちゃ!

!!!

今日の2年生の技術の時間に化石のコーティングをしました。
この間の沼田町での宿泊学習で採集してきたタカハシホタテの化石です。
そのままにしておくと化石はすぐに風化していきます。
空気に触れることのない海の底、そして川の底、土の中に500万年も閉じ込められていた化石ですから・・・。
その化石が空気にさらされるのを防ぐための作業です。
プロポリスという薬品を使うのが一般的なのですが、裏技があります。
木工用ボンドを水でといて刷毛で塗っていくのです。
この方法を子どもたちにも伝授しました。
私が子どもの頃は化石のとれる川でよく遊んだものです。
タカハシホタテの他にアンモナイトの化石を見つけたこともあります。
また、少し離れたところの池にいる川エビを捕るのも楽しみでした。
とってはおやつ代わりに食べていたのですが・・・よく病気にならばかったなあ・・・。
カワガニやヤツメウナギ、鯉、ザリガニ・・・いろんなものがいました。
カワガニcancerなんてほとんど姿を見なくなりましたね。
結構、ミソがたくさん入っていましたよ。

さてさて、技術室で作業をしていると突然に大きな声が。
何事かと思って話を聞いてみると・・・。
「先生!プーさんってぬいぐるみだったんですかimpact???」
その子は、技術室にあるプーさんの本を読んで発見したそうです。
しばらくその子は「ショックだ・・・今まで知らなかった。だまされていた。生き物だと信じていたのに。」とつぶやいていました。
私も40代になってから知ったので別にショックを受けることなんてないんですがね・・・coldsweats01
そういう私の最近のショックは・・・
リラックマの背中にファスナーがあったことです。
しかも、そこから水玉模様の服らしきものが見えていて・・・。
リラックマって何者なのでしょう?
何者かが着ぐるみを着ているんですかね?
着ぐるみを脱いだら・・・ちょっと恐いですが見てみたいような気も。
私にとっては最大の謎となってます。
ちなみに、ブログの左横のドアをたたくと毎日違うリラックマが登場します。
そこで発見したんですが・・・。
見た方もいますよね?

怒る時

「先生、そんなに怒ったら子どもに嫌われますよ!」と言われる時があります。
そんなに頻繁に、何でもかんでも怒っているのではないし、嫌われようと思って怒っているわけでもないのです。
怒るポイントというかタイミングがあって、それを逃さないようにしているだけ。
だめなことはだめとはっきり言っているだけ。
ただそれだけなんです。
重箱の隅をつつくような怒り方をしていては、何をどうしていいのか子どもたちは混乱してしまいます。
その他には・・・
怒る時は過去にさかのぼらない。
一つのことで怒る。
感情にまかせて怒らない。
直して欲しいことやわかって欲しいことを指摘しているのであって、人間性まで否定しない。
担任の先生と子どもとの人間関係や信頼関係を傷つけない(担任の先生が一番)。
などということも気をつけなくてはいけないことです。

それぞれの先生にはそれぞれの持ち味があって、怒る先生、やさしく受けとめる先生、わかりやすく諭す先生・・・それぞれが自分のやり方で子どもを指導していきます。
基本姿勢は、それぞれのよさをいかしあいながら子どもを指導していくということです。
自分と同じ指導をしないからといって、「あの先生には力がない」などと決めつけないことです。
目の前の先生を批判しないことです。
ただし、子どもに嫌われたくなくて注意しない、というのは違うような気がします。
「好かれる教師よりも、信頼される教師になれ!」と最初に勤めた芦別中学校でよく言われました。
嫌われることがあったとしても、言わなくてはいけないことは言わなければなりません。
その時はその子どもとうまくいかなくても、後から人間関係を修復できる場面はたくさんあるのですから・・・。

また、私は学年やクラスに関係なく怒ります。
学校全体で子どもを見ていこう、という考えからです。
怒ったクラスの担任の先生が「すいません。担任である私の指導の至らなさです。」と言われると悲しくなってしまいます。
子どもが悪さをするのはその先生の指導のせいではありません。
その子どもとその担任の先生の、これも一つの出会いと言っていいと思います。
「私に指導力があれば」と自分を責め立てる方もいますが、自分だけで解決しようと思わないことです。
それこそ、周りの先生方の力を借りつつ、自分の持ち味を出して子どもにあたった方がいいです。
もし、「お前の代わりに怒ってやっているんだ」なんて自慢げに言う先生がいたら、あまりかかわらずに信頼しないことです(別室に呼んで、または場所を変えて個人指導しようとする先生もごくたまにみかけますので)。
私は、「ありがとうございます。他のクラスや学年のことにまで気を配っているんですね。」なんて言ってくれる先生に出会うとうれしくなります。
愛情なくして怒ることなんて私にはできません。
でも、最近はそれが子どもに伝わっているのか不安になる時がありますが・・・。

試合のアドヴァイス

今日は卓球に試合がありました。
試合での選手へのアドヴァイスも監督によってさまざまです。
ポイントとなるところを2カ所ぐらい簡潔な言葉で伝える監督。
熱く熱く選手の心に訴えるように語る監督。
子ども自らに語らせる監督。
試合内容のふがいなさに対して怒鳴り散らす監督。
勝ったらほめて、負けたらけなす監督。
詳しく詳しく時間をかけて戦術を語る監督。などなど・・・
それぞれの特徴が出ていて楽しいですよhappy01
もしかしたら、私も観察されているのかもしれませんがね。
理想は・・・選手の持っているものを引き出すことができるアドヴァイスですよね。
なかなかできないことですが・・・。

今日のヒットは・・・
「もっとこういう風にラケットを使え!」という監督に対して、「練習の時にやっていないことを試合でできるわけないじゃないですか!!」と言い返した選手。
そうなんですよね、教わっていないことは言われてもできないんです。
本当に、言い返した子どもの言う通りです。
練習で教えてきたことがどれだけ発揮できているか、また、練習で教えたことの何を使えば試合が有利になるのかをアドヴァイスすべきなんですよね。
監督もその選手を勝たせたくてアドヴァイスしているのだと思いますが、ここら辺をわきまえていないと指導が空回りしてしまいます。
結局、その監督は「俺のいうことが聞けないのか」と怒鳴っていましたが・・・。
私もこんなことがないように気をつけなくちゃ、と思いました。
知らず知らずのうちにきっとやらかしてしまっていると思うので。
人のことは細かいところまで欠点が見えますから・・・shock

このことは授業でも同じで、教えてもいないことを突然やれ、と言われても子どもが困るだけですよね。
教えたことに対して評価していくことが大切です。

茶坊主

「茶坊主」・・・もう1年も前になるかもしれないけれども、某厚生労働大臣が社会保険庁の役人だかを評して使っていた記憶があります。
その意味を「広辞苑」で調べてみると・・・
(1)室町~江戸時代、武家に仕えて茶の湯の事をつかさどった剃髪の者。茶職。茶道坊主。数寄屋坊主。茶屋坊主。
(2)((1)が政治に口を挟んだことから)権力者におもねる者をののしっていう語。
(3)遊戯の一つ。数人で輪をつくった中に一人が目隠しをして入り、鬼となって、ある一人の前に「誰さん、お茶召し上がれ」と茶台を出しながら、その人の名をいう。もし当たれば、当てられた人が代わって鬼となる。お茶坊主。
もちろん、某厚生労働大臣は(2)の悪口の意味で使っていたわけで。

ところが、「いい茶坊主 悪い茶坊主」(立石優著)によるとすべての茶坊主が悪い人ばかりではないと書いてあります。
茶坊主は江戸城内にいる大名たちの間を歩き、情報をささやく潤滑油としての役目を果たしていました。
浅野内匠頭が茶坊主をうまく使っていたら吉良上野介への刀傷はなかったと言います。

では、いい茶坊主とは?
①社交性に富む
②協調性豊か
③調整能力がある
④情報収集力に優れる
⑤礼儀作法をわきまえている
⑥知性と教養がある
⑦周囲に気配りする
有能な秘書というか、リーダーを支える陰の立て役者というか・・・。
いい茶坊主がいて初めて、リーダーは自分の力を発揮できるのだなあ、と思いました。

その反面、悪い茶坊主とは?
①ごますり上手
②何事につけ要領がいい
③告げ口する
④人の弱みにつけ込む
⑤権力者に取り入るのがうまい
⑥虎の威を借りていばる
⑦人の顔色をうかがう
ついつい自分にとって都合のいいことばかり言ってくれる人を信じてしまいがちですが・・・。
人を見抜くことも大切なことなのでしょう。
某厚生労働大臣が批判した方々はこういう悪い茶坊主ばかりだったのかな?
そういう人ばかりを官僚に据えてきたことも批判されるべきですよね。

「麺工房 高砂」

5月から7月にかけて土曜日、日曜日もなく忙しい日が続きます。
体が持たないので今日はのんびりと過ごすことにしました。

まずは、かねてからすすめられていたラーメン屋に行くことに。
江別の高砂駅とポスフールのすぐそばにある「麺工房 高砂」です。
インターネットで「ラーメン 高砂」と打ってもでてきます。
店の主人が自ら作った手打ち麺でこれがうまいんですhappy01
多くのお店に行くと大手の既製品の麺を使っているためか、やや堅めの麺です。
でも、「高砂」の麺はもちもちしています。
だしは鶏から取ったスープ。
昔風の味がします。
今日はメニューの一番最初にある「白湯(パイタン)~ラーメン」の醤油味にしました。
味噌味、塩味もあり、その他につけ麺もあります。
「当店のスープは薄味・・・」と書いてありますが、十分しっかりとした味でした。
機会があったらいろいろ試してみようと思います。
麺そのものがおいしいのは初めてです。

その後、「高砂」から1分くらいで着くポスフールへ。
グルダの演奏するモーツアルトのピアノソナタとピアノ協奏曲のDVDを発見。
1枚1480円だったのでかなり心が揺らぎましたが我慢しました。
書店に行くと、「バカ親って言うな!(尾木直樹著)」と「巨匠たちのラストコンサート(中川右介著)」があり、おもしろそうだったので購入してしまいました。
特に後者にはグールドとバーンスタインのブラームスのピアノ協奏曲についてのことが書かれており、自分の見解との比較が楽しみです。

帰ってきてからは調子の悪かったメールソフトを修理し、マーラーの交響曲第4番(ジンマン指揮)を聞いて今の時間になっています。
第1楽章の冒頭、鈴とフルートはインテンポで進むのに第1ヴァイオリンとクラリネットがリタルダンドして残る部分があります。
ラトル指揮バーミンガム市響もこのスコア通りに演奏していて不思議な感覚に襲われた記憶があります。
ジンマンもラトルほどの衝撃はないものの同じ解釈で演奏していました。
多くの指揮者がこの部分の指示を無視する中、これからはこのような解釈の演奏が増えてくるのかな?
どの解釈をとるかは演奏者の考えに任されているので。

故郷を思う

昨日、今日と一泊二日で宿泊学習に行ってきました。
場所は沼田町の幌新温泉「ほたる館」。
なぜ、宿泊研修施設ではなく、ホテルを使用するのか?職員会議でも話題になりました。
その結果・・・
①修学旅行の事前学習ということから、一般客とのマナーを身につけさせたい。
②体験学習のメニューが郷土を大切にしたものである。
③化石、あんどんづくり、利雪施設など本物にふれることができる。
などを考慮してずっと沼田で実施しています。
考え方はいろいろあるので、その学校が何を目的にするかでいろんな取り組み方があると思います・・・正解はないですものね。

私はこの沼田町の炭坑町の出身です。
高校を卒業するまでは空知で生活していました。
でも、高校を卒業してからは、この空知に戻るつもりは全くありませんでした。
それまでの自分が好きにはなれなかったのです。
ですから、教員採用試験を受ける時にも空知は希望しませんでした。
登録になった時にも空知を希望しませんでした。
それなのに空知に決まってしまい、ものすごく落ち込みました。
今ではこの空知でよかったと思っていますよ!
たくさんの人とのすばらしい出会いがありましたから。

さて、この「ほたる館」の支配人のYさんは私の中学校時代の一つ上の先輩です。
「自分が生まれ育った沼田の幌新地区のよさを知ってもらいたい」という情熱を強く持っている方です。
体験学習の進め方も改良に改良を重ね、わかりやすいものになってきています。
どうしたらよさが伝わるのか、日夜努力を重ねているのでしょう。
そのていねいで熱心な指導には頭が下がります。
浦臼中学校が「ほたる館」を利用する時に「学校現場は宿泊学習や修学旅行で、宿泊施設にどんなことを求めているのか聞かせて欲しい」と相談されました。
そこで伝えたことが次のことです。
①地域の特性を生かすこと。夜高あんどん祭、雪を利用したエネルギー、化石、温泉・・・沼田でしか味わえない魅力がいっぱいある。それを体験学習として学べる場があるといい。
②広域で物事を考えること。沼田だけで独占しようとするのではなく、たとえば旭川動物園との連携を図る。一日目は沼田で体験学習、2日目は旭山動物園の見学・・・など。
③宿泊学習は各学校絵の宣伝が有効。修学旅行は業者が計画を立てるので旅行業者に売り込んでいくことが大切。旅行会社のプロの視点からいろんな意見を聞くと改良のきっかけとなる。(公務員は利益を求めて仕事をしているわけではありません。利益が出ることを優先させる一般の企業とは仕事の役割りが違います。一般企業のような考え方で物事を進めてばかりでは地域住民へのサービスは低下します。反対に、今のお客が何を望んでいるのかを知るためには利益を優先している一般企業に視点が有効です。それぞれのよさを行かしあってバランスよく共存してくことが大切だと私は思うのですが・・・利益が出ないことは悪いことですかね?)
④弘前の体験学習でもやっている絵付けを沼田で体験できれば、その分弘前での自主研修の時間などに充てることができる。わざわざ遠くで体験しなくても、それに匹敵する本物が近くにあることを宣伝する。
空知に戻らない、なんて決意していた人間なんですがね・・・。
それが今では故郷をどうするかで真剣に考えたりしているのですから不思議なものです。
私がすばらしいのではなく、こんな人間を動かすほどY先輩の思いが真剣だったと言うことなのです。
相手を引きずり込んで動かすほどの思い・・・人と人とのつながりが重要だと思うのです。

私の理想は、夜高あんどんのほんの一部、もしくは山車の一部の色づけを体験させたいのです(残念ながら、実現できていませんがね)。
やはり本物への色づけはやりがいがありますから。
そして、角あんどんでもいいから体験学習に参加した子どもたちの作品をお祭りそのものに参加させたいのです。
自分たちが何らかの形でかかわったものであれば必ずお祭りを見に来るはずです。
それがきっかけで数年、さらには将来の家族と沼田のお祭りに参加してくれたら・・・。
故郷を思う気持ちが自然に育ってくれたら。
中央のことしか考えない人間がかなり減ると思うのです。
地方を守っていかないと国は廃れるばかりです。
そこに気づいてくれる人間がもっともっと増えてくれたら・・・。

さてさて、だいぶ調子がよかった腰の具合ですが、やはり泊まりの指導は少しつらかったです。
周りの先生方にも悪かったかなあ・・・。
とにかくいつも以上に疲れるのです。
思うように体が動かないので力が入っているからなのでしょう。
日常から健康管理に気をつけておかないと周りに迷惑をかけてしまうんですね。
それにしてもY先輩。
とても一つ違いとは思えないようなバイタリティーでした。
思いを実現すること、私も見習わなくちゃ! 


シューベルト「魔王」

浦臼中学校の1年生は、シューベルト作曲の「魔王」を鑑賞しています。
指導の流れ等を紹介すると・・・。

①1時間目 ~ 歌の練習をしてから取り組みました(25~30分くらいかな)。
授業のねらいは、「曲の雰囲気を自分なりに感じとることができる」です。
まず、曲名も知らせることなしにじっくりと音楽を聞くことに集中させます。
2回目は曲を聞いて、思い浮かべた情景や想像したことを真っ白い紙に自由に書いてもらいます。
子どもたちが書いている間、曲を流し続けます。
その時の発問は「これから聞く曲には物語があります。その物語を自分なりに想像してみよう。文章で書いてもいいし、絵などで表現してもいいよ。」です。
さまざまな表現にふれることができる大切な時間です。
歌詞の意味も何もわかっていないのに核心を突くものが多いんですよ!
シューベルトの音楽の力ってすごいですよねshine

②2時間目 ~ 50分いっぱい「魔王」の鑑賞です。
授業のねらいは、「演奏形態を確認する。4人の歌い分けの特徴を感じとることができる」です。
最初に前時の復習として「魔王」を一度聞かせます。
そのあと、「魔王」の演奏形態を確認します。
最初に子どもたちの意見を聞き、予想を立てさせてから演奏形態を映像で確認します。
それをワークシートにまとめます。
次に「実はこの曲には父、子、魔王という3人の登場人物と情景を話する人が一人出てきます。父、子、魔王のそれぞれの音楽的特徴をまとめてみよう。それぞれの特徴をまとめてもいいし、他の人物の歌い方と比較してもいいし、同じ人物の回数ごとの違いを書いてもいいよ。」と発問します。
ここで流すのは、4回出てくる父、4回出てくる子、3回出てくる魔王の部分をまとめた音楽鑑賞教育振興会から出ているLDの音声のみのものです。
子どもたちは、父の声の低さ、子どもの叫びがだんだんと高く強くなっていくこと、魔王が意外にも楽しそうな感じがすることと最後に不気味な感じになることを感じとるようです。
「先生、魔王っていい人なの?」なんて聞いてくる子どももいるくらいです(将来悪い人にだまされるなよ・・・)。
特に、魔王が楽しげに聞こえることが不思議でならないようです。
そこで、教科書に載っている歌詞を読ませます。
なぜ、魔王が楽しげな雰囲気なのかがここで納得いくようで目を輝かせる子どもがたくさん出てきますnotes(1年生の時にはこんなに純情なのにね・・・)。
次に歌詞を読んで、父、子、魔王、語り手の四人の行動と心情をワークシートにまとめさせます。
ここまでやっておくと、もう歌詞がドイツ語であろうと関係ありません。
どんな物語で、どのような順序で歌われているのか、ということがバッチリ頭に入っているので曲に集中して聞くことができます(感動に浸れる素地ができるというか・・・)。
ここで、1時間目に自由に書いたものを配りそれぞれで見せあっこをします。
物語の内容など全く知らなかった自分たちがどうしてそのように感じ、表現したのかをわかってもらうためです。
「子どもの叫びの部分を聴き取っていたんだ」「魔王の部分を踊っている見たいと書いているよ」・・・などなどの声が聞こえてきますnote
「へえ~、そんな表現の仕方もあるんだね」なんて声も聞こえてきます。
価値観の拡大をねらってのことです。
一人で納得させるだけではなく、周りの仲間たちと伝えあうことを大切にしたいものです。
その後に一曲丸ごと通して聞かせます。
「実は全部通して歌った映像があるんだよ」というと「見せて見せて」とのってきます。
まずは、木村俊充さんのバリトン独唱で視聴させます。
「一人で4人をうたいわけているなんてすごいね」「ピアノの弾き方もすごかったよ」などとやや興奮気味ですeye
「じゃあこの演奏はどう?」とジェシ-・ノーマンのライブを試聴させます。
拍手で終わるんですよ!
「4人のうたい分けがすごかった。はっきりわかるよ!」とbell
この授業の後がいつも大変なんです。
休み時間や放課後になると、あちこちから「魔王」が聞こえてくるのです。
自分の気に入った部分を・・・ピアノ伴奏だろうが、父であろうが、魔王であろうが・・・一番人気は子の部分ですがね。
1年生につられて先輩たちまでもが昔を思い出して歌い始めます・・・happy02
それぐらいインパクトの強い曲なのでしょう。

③3時間目はシューベルトに関して関連曲を聞かせたりします。
ここで本当は「未完成交響楽」という映画を見せたいのです。
でも、高くていまだに買えていません。
私の母の大好きな映画で、その影響からか私の憧れの映画となっています。
一度見たことがあるのですが・・・誰か持っていませんかね。

今回の授業でとにかく大事にしたことは「感動」です。
「魔王」という曲に出会った時の感動を失わせることなく授業を終わらせることができたら・・・それのみを考えてみました。
せっかく子どもたちは曲を聞いて感動しているのに、音楽の授業を受けることにより感動が薄れてしまうのはもったいないことです。
曲の特徴がわかることは大切ですが、ここだけこだわってばかりで終わらせたくないですよね。
評価、評価と言われていますが、知識をどれだけ多く、そしてどれだけ確実に身につけることばかりにとらわれていては音楽科の価値がなくなってしまいます。
音楽を嫌いにさせない、そのために「感動」を大切にしていきたいものです。
そのことが生涯にわたって音楽を楽しむことができる子どもを育てることにつながるのでしょう。
それのみならず、人間としても心豊かに育ってくれるものと考えます。
壮大すぎますか?

腰を痛めて・・・

立ち上がるときには何かにつかまらないと立てません。
かがむときには背筋を伸ばしたまま。
顔を洗う時には片方の手で体を支えながら。
腰を曲げて顔を洗うことなんてできません。
車に乗り込むのに一苦労。
ドアを閉めるときに痛みが走る。
靴下をはくときは寝転んで。
片足で立つことができないのでズボンをはくときも寝転んで。
上の棚にあるものをとろうと背伸びをすると痛む。
ご飯を食べ終わってお茶碗を片付けるとき、お茶碗を持ったまま立つことができません。
給食の盛りつけの手伝いができません。
階段を上がるときには一段一段ゆっくりと。
登り切ると汗ばんでいます。
ピアノを弾こうにも腕に体重をかけることができない・・・指だけで弾く感じ。
足下にボールが転がってきても拾い上げることができません。
掃除の時間、ほうきをつかって掃こうとすると痛みます。
ぞうきんがけなんてもってのほか。
トイレのあとおしりを拭くときに腰に痛みが走ります。
一度いすに座ってしまうと、立ち上がったときにすぐに背筋を伸ばせません。
シャンプーの時に前屈みができません。
おけにお湯をくみ取るのが困難です。
ちょっとしたものでも簡単に持ち上げることができません。
寝返りを打つときに少しコツがいります。
気をつけて歩かないと足が地面についたときの振動が腰に伝わります。

ここ何日間かの不便さを書いてみました。
今はだいぶ調子がよくなってきているので難なくこなせるものも出てきました。
それにしても、健康なときには何も考えずに当たり前にできていたことの多くが実はかなり力のいることで難しいことなのだということがわかりました。
何回も同じ症状で苦しんでいるはずなのに治ってしまうと全く意識しない・・・。
まさに、のど元過ぎれば何とやら・・・ですね。
いかに普段、何も考えずに自分の体に負担をかけていたかがよくわかりました。
少し大切にしていかなきゃ!

そして、症状を抱えていなくても相手の身になって考えることの大切さがわかりました。
痛みを抱えている本人でないとわかってもらえないことって結構ありますね。
やりたくてもやれない、でも周りに白い目で見られてしまう。
これってかなりつらいものがあります。
腰を痛めてわかったことがたくさんあります。
やさしくならなきゃ!

「ピアノの森」その3

腰が痛くて椅子に座る時間にも限りがあります。
どうも一つに姿勢を続けた後に次の動きをしようとすると痛みが走るようです。
ちょこちょこと姿勢を変えながら伸ばしたりしています。
いろんな方から心配する声が寄せられましたが、だいぶよくなったんですよ!
ご心配をおかけしましたcoldsweats01
寝ていると楽なので横になりながら「ピアノの森」を読み続けました。
その第14巻、曲の解釈について納得できるものがあったのでうれしくなりました。

まずは、ショパンのノクターンOP.48-1ハ短調。
壮大で深い悲劇性を持ち、しかも瞑想的な雰囲気のある曲です。
私は最初の主題が再現された時の部分が大好きです。
三連符の伴奏にのって浮かび上がる主題。
その主題は崇高で尊く、理想のような感じで、透明な音色で遠くから心の奥底に響いてきます。
三連符の伴奏は主題に恋い焦がれ、追い求めようとざわついているのだけれどもなかなかそれがかなわず・・・強い憧れと焦燥感とが入り交じったような雰囲気がします。
しかもそれは波のように引いては押し寄せ・・・。
心の中がとても揺さぶられる部分です。
「ピアノの森」ではこの曲について、「キリストの受難を表現した曲」と解説してありました。
私はこのような解説を初めて目にしたのです。
ショパン自身の言葉であることを信じたいです。
この短い解説がすべてを表現しているように感じるからです。
私の感じていたこととぴったりなのです・・・ただの悲劇を表現しているわけではない、と。
この曲の演奏でオススメは、マリオ・ジョア・ピリスの演奏です。
これだけ音色の変化に気を遣っている演奏も珍しいと思います。
もうひとつは、ポリーニがウィーンで演奏したライブです。
高校の時にラジオで聞いて衝撃を受けた演奏だったのですが、なんと海賊版で発売になっていたので買ってしまいました。
再現部の強弱の付け方がすばらしいです。
すごく小さい音から始まり、徐々に音を大きくして力強いフォルテまで持っていきます。
たった一つのクレシェンドだけが貫かれた演奏です。
巨大な代理石像が霧の中から徐々に浮かび上がり、最後には確固たるものとして眼前に姿を現したような感じがします。

もうひとつはショパンのバラードOP.23。
アダム・ミキェヴィッチの詩からインスピレーションを受けて作曲されたと言われている曲です。
リトアニアの伝説「コンラード・ヴァーレンロッド」です。
十字軍が全盛の中世。
十字軍に敗れたリトアニアから一人の少年が連れ去られます。
その少年は敵の司令官に息子のように育てられますが、祖国への思いから逃げだし、祖国リトアニアの独立のために立ち上がります。
彼は敵である十字軍の伝説の英雄「コンラード・ヴァーレンロッド」と名乗り、十字軍に入り込んで司令官にまでのぼりつめます。
そして、わざとに誤った指令を出して十字軍を崩壊に導き、祖国リトアニアに勝利をもたらします。
しかし、十字軍を裏切った「コンラード・ヴァーレンロッド」は十字軍に処刑された。
このような話なのですが、「ピアノの森」ではラストが違うのです。
十字軍に処刑されたのではなく、「自ら命を絶った」となっているのです。
大きな衝撃でした。
その方があの悲劇的なコーダの雰囲気にぴったりくるのです。
演奏はホロヴィッツがロンドンで演奏したライブが好きです。
多少技術的に破綻している部分があるものの、叙情性と高揚感の対比が抜群です。
何か破滅に向かって突き進んでいるような悲劇性が強く、心に強く残ります。
神と悪魔がいるのだとしたら、悪魔の演奏だと思います。
レガートのすばらしさではアシュケナージのものがオススメです。

k.280

歩けないほどの腰痛でしたが、今日はかなり状態がいいです。
試合の引率にも行けましたからscissors
私の腰は奈井江のカイロプラクティックしかあわないのです。
なぜかはわかりませんが、そこ以外で治療してもらうと痛みがひどくなったりする時もあります。
本当にていねいによい状態にしてくれました、感謝です。
でも、バスに揺られての1時間、そしてベンチにじっと座っての7時間は結構きつかったですsweat02
選手へのアドヴァイスなんてできる状態でなかったのですべて子どもたちに任せ、ギャラリーから観戦していました。
その姿を見て知り合いの監督は「ベテランともなると余裕だね!」なんてことを言っていきます・・・腰が痛いだけなんだってbomb
それにしても、子どもたちはよくやってくれましたshine
ギャラリーから自分の学校の選手の試合を見るのも冷静に分析できていいものだなあ、と思いました。

帰ってきてから疲れた腰を休めるためにすぐに横になりました。
ただ寝ているのは暇だったので「ピアノの森」を読みながら。
読んでいるとモーツアルトのピアノソナタk.280が出てきました。
DVDではk.310のイ短調ソナタが使用されているのですが、原作ではk.280のヘ長調ソナタでした。
大学時代に教官に言われた曲ではなく、自分が選んだ大好きなk.280を練習していた時の記憶がよみがえり懐かしかったです・・・(生意気な学生でしょ?)。
まさかこんな形で再会するとは思ってもみませんでした。
このk.280はその後のモーツアルトの作品に出てくる旋律や和声進行、リズムなどがいっぱい詰まった曲です。
素描集のような魅力的なアイディアにあふれた曲です。
唐突に旋律が移り変わるので一見とらえどころのない曲に思えてしまうのですが、限りない美しさをたたえています。
弾けば弾くほどその魅力にとりつかれるような感じがしたものです。
第2楽章なんてk.488のイ長調のピアノ協奏曲にも通ずる内容の深さです。
シチリアーノ独特の愁いを帯びた旋律が美しいです。
と言ってもあくまで私の価値観でしかないのですが・・・。
このk.280に対して、私と同じ思いを持っている方がいたらすごくうれしいです。
寝ながらリリー・クラウスの演奏でk.280を聞きました。

それが終わるとベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番です。
グールドとカラヤンの演奏とバックハウスとイッセルシュテットの演奏の聞き比べですconfident
豪放なバックハウスの演奏には何回聞いても圧倒されます。
第1楽章のカデンツァを凝集された集中力と力強さでで一気に弾ききるので聞いているこちらも緊張感でいっぱいになります。
それがあるからこそ第2楽章の静けさが心にしみいるのです。
筋肉質の演奏と言ったらいいでしょうか・・・。
それに対してグールドの演奏はやはり可憐な感じがします。
このピアノ協奏曲は力強さが売りの曲だとばかり思っていたのですが・・・繊細さで印象に残る演奏に仕上げることもできるのだな、とグールドに驚かされました。
力強いフォルテがなくても心を揺さぶる演奏はできるんですね(語弊があるかな)。
バックハウスとは違うカデンツァを使っていますが、息を詰めたような間合いで緊張感を高めていく有様は見事としか言いようがありません。
緊張感や興奮を高める方法はいろいろあるということを思い知らされます。

こんなにゆっくり音楽に浸れるなんて・・・。
痛い思いをしていますが、腰を痛めたからこそかな。
「ピアノの森」もゆっくり読むことができたし。

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