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2008年12月の28件の記事

「Piazzolla」

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フィギュア・スケートを見ているとずいぶんタンゴが使われていますね。
浅田真央選手の「ポル・ウナ・カベーサ」、鈴木選手の「リベルタンゴ」、すばらしい演技だと思います。
曲の雰囲気はもちろん、変わり目をよくとらえているなあ、と。
表情の変化が見事ですよね!
私もタンゴは大好きですo(*^▽^*)o
「何か聞いたらいいと思う曲は?」と聞かれたときには迷わず「タンゴ!」と答えます。
始まりはバンドネオン奏者であり、作曲家でもあるAstor Piazzolla(アストル・ピアソラ)。
昔、某社のウィスキーの宣伝でチェロ奏者による「リベルタンゴ」が流れていました。
旋律がいいなあ、と思ったのですぐCDを購入。
でも、何回も聞いているうちになんとなく違和感が・・・。
「タンゴって、こんなになめらかに朗々と旋律を歌うものなのかなあ?」
きっかけはバックで繰り返される生命力あふれる魅力的なリズムに気づいたから。
そんなある日、ピアソラのライブを収録した1500円のCDを発見。
購入して聞いてみるとリズムが全面に出ている。
その演奏は衝撃でしたw(゚o゚)w
その後、ピアソラ自身が「タンゴはリズムが命」と発言していることを知り、納得。
だからといってチェロ奏者の演奏が邪道、だなんて言うつもりはありません。
旋律を際だたせた演奏という意味ですばらしい演奏だと思います。
チェロ奏者のCDのおかげでピアソラの名前が一般的になったのだと思うし。。。
ピアソラのCDは本人による演奏もけっこうたくさん出ています。
引き込まれるような力強い演奏ですよ!
ピアソラには、タンゴを改革したために命まで狙われたという逸話が残っています。
伝統と闘い、改革するということはそれほど大変なことなのでしょう。
私たちの耳からするとそれほど大変なこととわからないのですが・・・。
曲があまりにもすばらしいので。
「Tango:Zero Hour」
「La Camorra」
「The Rugh Dancer and the Cyclical Night (Tango Apasionado)」
これら「三部作」と言われている写真のCDがかなり完成度の高いアルバムです。
映画にもよく使われていますよ!
この三部作には入っていないのですが、「アディオス・ノニーノ」が私の大好きな一曲です。
ピアソラの父ノニーノが亡くなったその晩に作曲された曲。
一種の鎮魂曲と言えます。
他にもたくさんいい曲があるし、二台のピアノによるものもあります。
ぜひ、ピアソラ自身の演奏、そしてピアソラ作曲のいろんな曲も聞いてみてください。

ピアソラから聞き始めたタンゴ。
そのうちにピアソラ以外のタンゴも聞きたくなるのは当然のこと。
「ラ・クンパルシータ」もいいし、「ポル・ウナ・カベーサ」もすばらしいです。
1980円で10枚組みのタンゴ音楽集なんていうのもあります。
また、小松亮太さんという日本人バンドネオン奏者の演奏も聞いてみてください。
同じ曲でも編曲によりこんなに違うのか・・・と驚かされます。
感性の違いと言うんでしょうか・・・。
私の大好きな演奏家の一人です。
「リベルタンゴ」「ポル・ウナ・カベーサ」も全く雰囲気が違っておもしろいですよ!

今年最後の書き込みがピアソラとタンゴになるなんて・・・(*^-^)
なんだか不思議な感じがします。
書きたいことがたくさんある中で、これになったのも何かの縁と言えるでしょう。
いろんなことがあったけど、自分の世界の広がりを感じることができた1年でした。
投げやりにならず、精一杯生きることって大切ですね。
みなさんよいお年をお迎えください。
来年もよい年となりますように!

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「時分の花」

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世阿弥には、能に関する理論書があります。
その本の題名が「花伝書」といい、「風姿花伝」ともいいます。
その中に「時分(じぶん)の花」というものがあります。

「此の花は真(まこと)の花にはあらず、ただ時分の花なり」

「時分の花」というのは、能楽で、若さという好条件によって現れる一時的な面白さのことを指します。
それは、人間のほんの一瞬の美しさのことであり、とどめようとしてもとどめることができないもの。
能では、14才、15才の少年の美しさのことだそうです。
どんなに熟練した役者が演じても、純粋な少年の美しさにはかなわない。
だから歳をとったらあきらめろということではありません。
「時分の花」を常に思い、追い求める。
歳をとっていくとついつい自分の芸におぼれてしまいます。
だからこそ、それを戒め、学びはじめたときの心である「初心の花」をいつも心がける。
そのことによって、やがて肉体的な美は失おうとも、「まことの花」に至ることができるのたと言っているのです。
「まことの花」とは、鍛錬と工夫とを究めて得た真実の花の面白さ。
それは若さがもたらすその時だけの美しさというものではありません。
歳を重ねれば重ねるほど光り出す磨きのかかった美しさというものです。

教師にも同じことが言えます。
子どもと同じ目線で物事を考えることができる。
年齢が近いからこそ、子どもの気持ちがわかる。
新鮮な目で見て、みずみずしい心で感じ取ることができる。
言葉が次から次へと浮かんでくる。
やればやっただけ自分の力量として身につく。
新しいものに即対応することができる。
少々の無理でも身体が動く。
若さ故の教師の魅力というものがたくさんあります。
これが教師としての「時分の花」です。
それはベテランの教師がどんなに努力してみたところでかなわないものです。
でも、それはその時だけの一時的な魅力。
やがて歳をとり、その若さという魅力はなくなってしまいます。
その若さという魅力を自分の力量と勘違いしてしまい、うぬぼれていてはいけないのです。
初めて教師となったときの自分の気持ちを常に思い、初心を忘れないこと。
若さという魅力におぼれることなく、常に自分を磨き続けること。
それによって本当に魅力のある教師になれると思うのです。
それが教師としての「まことの花」ということになるのでしょう。

私の教師としてのピークは27才から35才にかけてだと思います。
その頃の自分にはかないません。
ただし、それは「時分の花」。
若い時を懐かしみ、うらやんでばかりでは何も変わらない。
「まことの花」となるように自分を磨き続けていくことが大切。
そうすることによって、年齢を重ねた者にしか出せない魅力が出てくるのでしょう。

カイの散歩

今年最後のゴミを出すために道をつける。
ゴミを出し、除雪前にカイと散歩。
雪の上の車輪の跡しか歩かないので安心と言えば安心。

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「散歩に行こう!」と誘うカイ(゚m゚*)

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いざ!散歩に出発。
「いってきま~す(_´Д`)ノ~~」

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車輪の跡を確かめながらそろりそろり(゚m゚*)

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「うわっ!何か来た!!」
大慌てで戻るカイ(*≧m≦*)
どんなに慌てていても車輪の跡からはそれないのでした( ^ω^ )

届きました!芋麹全量

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こばやし酒店から入荷のお知らせがあり、吹雪typhoonの合間をぬってさっそく購入。
洞爺湖サミットで各国首脳に出されたこのお酒bottle
その影響か、ますます手に入りにくいようで・・・。
毎年毎年の仕込みによって度数も変わるこの焼酎。
今年は28度でした。
2008年12月15日15時に瓶詰めとあるから届いたばかりということもわかります。
しばらく眺めたり、なでてみたり、写真を撮ったり・・・(*゚ー゚*)

フィギュアスケートの鈴木選手のすばらしい演技と同時に開栓。
(あれだけの演技と会場の雰囲気のあとですべるのはきついよね)。
まずはストレートで。
すごくやさしい感じthink
度数が高めという感じが全くしない。
次はお湯割りで。
ちょっとぼやけた感じかな・・・coldsweats01
香りがなんとも言えないけど。
最後は洞爺湖サミットで出されたのと同じ方法、ロックで。
芋の甘さがしっかりと伝わってくるlovely
黒麹の力強さと芋の甘さが一体となっている感じ。
同じ焼酎でも飲み方によって味が変わるところがおもしろいです。
使う芋の種類、麹、仕込みの年・・・こんなにも違いが出るんですね。
全ての焼酎を味わいつくすには一体何回生まれ変わればいいのかな?
なんてことを考えながら飲んでいました。

さて、この「宝山」をつくっている西酒造。
なんと弘化2年(1845年)創業というからビックリ!
昔ながらの伝統的な焼酎はもちろん、新しい試みに取り組んでいるとこがすごい。
ちなみに、この「宝山」とは人の名前。
琵琶法師として有名な宝山検校から名付けられているとのこと。
吟弾の祈祷で竜を昇天させ、人々に富をもたらせたという言い伝えのある人です。
ありがたい名前ですね。

飲み過ぎないようにセーブしていきます。
これから正月に突入するから・・・。
最近は除雪三昧snow
重い雪との闘いです。
そして楽譜をスキャナーに取り込んで卒業式の曲を編曲。
全校合唱は「手紙」にする予定。
スコアメーカーとスキャナーで楽譜の取り込みをしているのだけれども本当に簡単。
5分もあれば終わってしまいます。
こんなんなら早く導入すればよかったです(*^-^)。

続・「研究授業」とは?

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「研究授業について一言で説明して下さい」とお願いされたので・・・(^-^;
文章がかなり錯綜していますものね。
自慢げに訳のわからない話を長くする人っていますよね?
黙らせたい人・・・。
そんな人には、「あなたの言いたいことを一言で言って下さい。私の頭では理解できなくて・・・」なんて言うと黙る人がけっこう多いですよ(o^-^o)。
それで一言で説明できる人は力のある人ですが・・・。

①「研究授業」とは?
研究主題が妥当なものであったかどうかを授業実践を通して検証するもの。

②「授業研」とは?

授業者の授業そのものについて検証するもの。

③「公開研」とは?

学校や子どもの実態を広く公開し、教育の成果を披露したり、今後の協力を仰いだりするためのもの。

一言で表現するとこんな所かな。
次は補足の説明となるので気になる方だけ読んで下さい。

①の「研究授業」はあくまでも研究主題がどうであったかを検証するために行われるもの。
研究主題には、その組織に所属する人たちの「どのような子どもたちを育成したいのか」という願いがこめられています。
この方向で研究を深め、実践を重ねるとこんな子どもたちが育つにちがいない。
そんな仮説を立て、研究と実践に取り組んだ結果としての授業ということになります。
仮説に基づいた授業ですから、成功するか失敗するかは全くわかりません。
ただし、つくられたときは「この方向でやってみよう!」という合意があったはず。
その時には「これでいける」と考えていたはず。
でも、考えたようにはうまくいかないことってたくさんあります。
仮説は仮説なのですから。
だからこそ、成功しても失敗しても、どうしてそのような結果になったのかということを検証していくことが大切なのです。
研究主題が妥当であったということになれば、さらにより良いものにするにはどうしたらいいのかをみんなで考えることになります。
研究主題が不適となれば、何が課題でどこが違ったのかを反省し、具体的な改善策をみんなで考えることになります。
つまり、授業が成功しても失敗してもそれは研究主題を検証する材料でしかありません。
子どもの変容が研究主題や仮説のようなものであったかどうかが問題となります。
教師個人の力量を問い、評価するようなものではないのです。
組織全体で支え合い、創りあげてきた授業なのですから。
だからこそ空知は「共同研究」を大切にしているんですよ!
分科会などでたくさん意見が出てきたらしめたもの!
改善策を具体的に教えてもらったことになるのですから。
言われることは全然恐くないんですよ!
もしかしたら誤解されている部分があるかもしれないので、その時には納得いくまで意見を伝え合いましょう。
でも、相手の人格を否定したり、自分にしか通用しない言葉で意見を言ってもだめですよ。

②の「授業研」は、授業自体が検証の材料となります。
授業者の発問は妥当であったか。
授業の流れは十分考えられていたか。
子どもの実態と合っていたか。
何をねらっての授業であったのか。
無理のない計画であったか。
教材研究は十分なされていたか。
などなど、授業者の考えや力量が問われます。
「個人研究」の成果を発表する意味合いが強くなります。

③の「公開研」は、その組織の教育の成果や子どもの実態を見てもらうことに意義があります。
子どもたちの実態を見てもらうことにより、地域や保護者に協力をお願いしなければならないときもあるでしょう。
学校としてここまで子どもを育ててきた、という成果を見せて、意見を問うときもあるでしょう。
なぜ公開するのかというねらいが明確でないとなんとなくやっただけ、とりあえずやっただけというものになってしまいます。
ありのままを見せるわけですから、非常に恐いことだと思います。
公開研の方が楽、と考える人がいたらとんでもないことです。

北海道音楽教育研究大会はもちろん①でなければなりません!
これは前回でも訴えてきたところです。
残念ながら、②に偏った大会の多いことか。。。
私たちも気をつけていかないとね!

グループ研修1

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来年度の北海道音楽教育研究大会に向けての取り組み状況です。
12月25日のクリスマスの日に行われたグループ研修で、四人の授業者の領域が決定しました。

南小学校の山崎教諭は小学校2年生での公開。
領域は歌唱表現です。

日の出小学校の平田教諭は小学校4年生での公開。
「ソーラン節」を教材として扱うということです。

光陵中学校の斉藤教諭は中学校1年生での公開。
領域は表現で、「創作」に取り組みます。

豊中学校の末松教諭は中学校3年生での公開。
領域は合唱表現で、教材として「春に」を考えています。

悩みに悩み抜いてここまで決めることができました。
次のグループ研修までの宿題もできました。

①関連する指導案や指導事例、書籍などを持ち寄る。
②楽譜や音源を集める。
③これまでの全空知音楽教育連盟の研究紀要を読む。


授業者の思いを大切にし、それを生かし切ることができるようにグループ内での支えが必要になってきます。
一人ひとりが自分のこととして研修に参加することが大切です。
そうすることによって、それぞれに大きな財産が残ります。
自分のために研究に取り組むんだという考えを忘れないで下さい!

空知のよいところは小学校と中学校との交流があることです。
このことはこれからも大切にしていきたいと考えています。
それぞれのグループで何が話し合われたか、その記録をこれからこのブログに紹介していきます。
その上で疑問点や詳しい研修の内容を研修に参加した仲間に問い合わせると流れがわかるのではないでしょうか。
今回は11月18日の記録を紹介します。
12月25日の記録は届き次第紹介しますので楽しみにしていて下さい。
この記録が当日の研究発表の土台となります。

小学校の記録です。
「syou11.18.pdf」をダウンロード

中学校の記録です。
「tyuu11.18.pdf」をダウンロード


今回、今年の秋に購入した複合型のプリンターが大活躍flair
スキャナーの操作ってこんなに簡単だったとは・・・。
慣れると5分ほどで作業が終わります(かなり時間がかかると思っていました)。
ちょっとした仕事の合間にできるんですね。
苦手意識を持たずにチャレンジするばよかったですsweat02
そして、前にも書きましたが5分でやれることってたくさんあるということが改めてわかりました。

「研究授業」とは?

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「失敗したらどうしよう・・・」

研究授業をお願いすると必ず聞こえてくるこの声。
そういう私も若い頃はそんな考えを持っていました。

人に見せるからには失敗できない。
失敗したらちからのない教師と見られる。
せっかく頑張ってくれた子どもに申し訳ない。
人に見せるのだからかっこいいところを!
これまでの実践のまとめなんだから一番いいところを!

でもね、研究授業って失敗していいんだよ!
研究主題があって、「こういう取り組みをしたら子どもはこう変容するかもしれない」という仮説のもとに行われるのが「研究授業」。
成功しても失敗しても次のことを話し合うために研究授業があるんだから。

・研究主題と仮説が妥当であったか?
・研究主題と仮説を理解して取り組んでいたか?
・研究主題や仮説と実践にずれはなかったか?
・研究の成果は?
・研究の反省点は?
・どの点が成功の理由か?
・どの点が失敗の理由か?
・今後の研究の課題は?
・よりよいものにするためには何に取り組んでいけばよいのか?
・教師のかかわりで子どもがどのように変容していったのか?


これらのことを話し合い、目の前の子どもたちのために教師としていかに力をつけていくのか、というのが研究授業。
子どもたちによりよい授業を還元していくために研究授業がある。
たとえ失敗したとしても、「この方向ではうまくいかなかったから、次は違う方向から迫ってみよう」という改善策につながる。
成功した部分は成果として、失敗した部分は課題として次につなげていけばいいだけの話。
世の中には絶対と言える指導方法なんて存在しないもの。
だからこそ、このように試行錯誤を繰り返すことによってよりよい実践へとつなげていくことに意義がある。
失敗は大いにけっこう。
失敗から学ぶことの方がたくさんある。
それを次に生かせばいい話。
「この方向で達成できると思って研究に取り組んだけどうまくいきませんでした。ごめんなさい。」で済む話。
研究授業で失敗したからと言って自分の一生が終わるわけではない。
また、学校や連盟といった組織で動くものなので、個人の力量を判断したり、個人の責任を問うものではない。
「失敗した責任をとれ!」とか「組織の顔に泥をぬりやがって!」なんてことを言うのはもってのほか!
その組織に所属している人たちはもちろんのこと自分自身、そして子どもたちも勉強になるもの。
それが研究授業。
「いろいろあったけど、やっぱりやってよかった!」と最終的に言えることを目指すもの!
「今回うまくいかなかったところはこれからさらに研究を重ねてみよう。」
それでいいじゃん。
継続して研究に取り組んでいくことで何かがきっと見えてくるはずだから。

全空知音楽教育連盟が考えた研究主題や仮説を授業という実践を通してみんなで検証しあうもの。
これまで培ってきた「共同研究」のよさを生かしていこうよ。
「北海道」という冠がついたからといって特別に構える必要はないよ。
研究授業を勘違いしないでね。

「Xmas」のこと

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12月24日クリスマス・イヴxmas
みなさんはどんなクリスマスを過ごしましたか?

私の子どもの頃、誕生日とかクリスマスなど何か特別な行事の時のごちそうはバタークリームのロールケーキに鶏の足とまぜご飯と決まっていました。
それは、当時の我が家の贅沢メニュー!
今でもお祝い事があると鶏の足を食べたくなる理由はここから来ていると思います。
それだけでとても幸せな気分になれるのですから、なんと安上がりな男なのでしょうcoldsweats01
ちなみに今の私の夢は、燻製機で自家製の鶏の足の燻製をつくること。

クリスマスと言えばサンタさん。
でも、5歳下の妹が生まれるまで我が家にサンタさんは存在していませんでした。
生まれてからも妹の所には来るのですが、私には「大きいから」という理由で来ることはなかったですcrying
祖母にそのことを話すると、「サンタさんが来ないのは日本人の証拠。ちゃんと布袋さんが来てくれるから・・・」と慰めてくれましたが、その布袋さんも見たことはありませんthink
そのかわりに父が毎年、一冊の本を買ってくれていましたが・・・。
その本も一日で読むと「もっと大事に読め」とか「何回も読むともっとおもしろくなる」とか言われたものです。

さて、そのサンタさん。
今では暖炉とか太い煙突のある家がなくなってしまい、すごく困っているとか。
それでも、煙突のない家でもちゃんと来てくれるのはなぜか?
今はどこから来るか知っていますか?
テレビやコンピュータの画面から出てくるそうです。
そう絵本に説明してありました。
でも。。。画面から出てくるサンタさんの挿絵は、ホラー映画「呪怨」の伽耶子(かやこ)のようですshock

このクリスマスが終わると大晦日、そしてお正月fuji
あっという間に今年が終わってしまいます。
早いですね。
気を引き締めて生活しないとあっという間に肥えてしまうし。。。
気をつけなきゃ!

12月25日を迎え、5周年記念のリラックマも役目を終えてしまいました。
もとのデザインに戻りました。。。

「水上のパッサカリア」

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ずっと気になっていた「水上のパッサカリア」という本。
2006年に第10回ミステリー文学大賞新人賞受賞作品です。
作者は海野碧(うみのあお)さん。
本にはさまっていたしおりから出だしを紹介すると・・・

過去を秘め、静かに暮らす男・大道寺勉の前に昔の稼業「始末屋」の仲間が現れる。
半年前に事故死した同棲相手・片岡奈津は、実は謀殺されたのだという思いもよらない事実と、トラブルの種を抱えて。


この紹介文を読んで興味を持ったのですが、内容はもっと複雑です。
最後が少しあっけない感じがするものの、一気に読んでしまいました。
パッサカリアとのつながりは?

大道寺勉と一軒家で同棲できるようになったら・・・。
「その家のベランダでお茶を飲めるようになったら一番最初に聞きたい。」
映画好きの片岡奈津がそう思ってCDを買った曲。
イギリス映画「愛と哀しみのパッサカリア」の挿入曲。
その曲は、ヘンデル作曲のチェンバロ組曲第7番ト短調から「パッサカリア」。
パッサカリアとは音楽の形式の一つで、17,8世紀頃のバロック時代のもの。
低音の旋律が何回も繰り返され、その上に上声部が連続した変奏を展開するもの。
登場人物の片岡奈津はこの曲の印象を次のように表現しています。

「泳げないのに水に浮かんでゆらゆらしている気分になる。
キラキラ光る湖の上を、ゆっくり動いていく光景が目に浮かんできて涙が出る」

読み終わったあとにこの曲を聞きたくなるものの、本の中にこの曲が登場するのは前半に1回と最後1回。
しかも、ほんの2ページばかり。
この本の内容に似たような雰囲気の音楽だからなのか、すごく印象に残ります。

これをきっかけにヘンデルの音楽を聞き直しています。
写真のCDは、ヘンデルのチェンバロ組曲全集。
この本に出会ってから買ったものです。
ハレルヤコーラスで有名な「メサイア」、「水上の音楽」、「王宮の花火の音楽」だけが有名になっていますが・・・。
チェンバロの曲もすばらしいです。
そして、歌曲もいいですよ!
「Dank sei dir Herr(主よ、汝に感謝す)」という曲なんか最高!

真意を聞こう

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教師になったばかりの頃のニガ~イ思い出から・・・。
意見を言われると、それを批判と誤解してしまう私の性格が原因の失敗談です。
今も気をつけるようにしているのですが。。。
なかなか・・・

当時、自分たちが考えたり感じたりしたことを学級の班のメンバーが1日交替で書いていく班ノートというものをやっていました。
仲間同士で返事を書きあったり、私の言葉を書いたり、交流の場として利用していたのです。
そんなある日のこと、一人の子どもが「担任の先生(私のこと)の直してほしいところ」を書いてきました。
文章を何回か読んでみたのですが、意味のわからないところがあります。
その日は忙しくて時間がなかったこともありますが、批判され、拒否され、否定されたように感じてしまった私はノートに感情的に返事を書いてしまったのです。
その夜に保護者の方から「先生の書いた文章のことで子どもが大変傷ついている」との電話。
教頭に報告して、すぐに家庭訪問をしました。
その子と両親とで話し合いをしていくと、その子がどれだけ私とクラスのことを真剣に考えてくれているかということが伝わってきました。
批判、否定、拒否ではなかったのです。
完全に私の誤解でした。
その場で謝罪したものの、その子との関係を修復するにはその後結構な時間がかかりました。

このことから私が学んだこと・・・
①子どもが訴えてきたときにはまず話を聞くこと。
②誤解を解こうと躍起になり、説得しようとしないこと。
③文章で書いたものは一生残ることから、文章に書いて伝えるときには励ましの内容にすること。
④厳しい内容を伝えるときには必ず口頭にすること。
⑤批判めいたことが書いてあっても、それはその子が勇気を出して書いてくれたありがたいものであると考え、まず受けとめること。
⑥自分の非を認めたときには弁解せずに謝罪すること。
⑦色眼鏡で話を聞かない。内容で判断すること。
⑧子どもに好かれようと変なこびはうらないこと。子どもと教師には一線がある。

時間がなくても、ほんの少し話を聞いてみればよかったのです。
その上で、たくさんの時間が必要と感じたときには別な時間を設けることを約束する方法もあったはずです。
そして、その子だけの問題なのか、本当に批判なのか、などを見極めるためにもまずその子の真意を聞くべきだったのです。
批判めいた内容になっていても、教師のことを心配して書いていることが多いからです。聞くことを大切に心がけていかないと、不信感を強め、二度と話してくれなくなります。
また、伝えてくれたということは解決の方法を示してくれているとも言えます。
解決の糸口が見えることが多いです。
書かれていることを直してみることで、クラスの子どもたちとの信頼が回復することもあります。
直さなきゃいけないところを受け入れるにはかなりの勇気がいりますが、自分を変えることのできる機会と前向きに考えた方がいいです。
一番恐いのは影であれこれと教師批判が広まることです。
さらに、誤解を解こうとついつい必死に自分の考えを一方的に話してしまいがちになりますが、それは子どもの意見をじっくり聴いたあと。
そうしないと「先生に言いくるめられた」という思いを強くしてしまいます。
私たち教師よりも生きてきた年数が少ないのですから・・・。
子どもの言葉の数も少ないだろうし、なんだかんだ言って教師の方が言葉巧みですよね。
最後に、基本的にどんな子どもの話でも聞くということも大切です。
普段、協力的だろうが、反発的だろうがいい意見はいい意見です。
意見の善し悪しを人で判断するととんでもない目にあいます。

失敗を繰り返して教師も成長いていくと思います。
それを恥ずかしいことと考え隠さないこと。
問題が大きくならないうちにまわりの協力(学年団とかの)を得ること。
そして何よりも、失敗を繰り返さないように強く胸に刻むこと。
プライドの高さ、頭のよさは大きな壁となるときがあるのでそれを捨てる覚悟で!

「糸を紡ぐグレートヒェン」

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「Ave Maria」を聞いているときに、同じCDに入っている「糸を紡ぐグレートヒェン」も久しぶりに聞いてみました。
中学生の時に出会ったゲーテの「ファウスト」。
浪人時代、予備校の講師の話を聞いてさらにこの作品の虜に。
高校2年生の音楽の時間に初めて聞いて以来、その魅力にとりつかれてきた「糸を紡ぐグレートヒェン」。
大学の時には伴奏もかってでたほどですcoldsweats01
聞くたびに悲痛な音楽に胸が張り裂けそうになります。
この冬に「」ファウスト」も読み直してみようかな(何回めになるかな・・・)。

グレートヒェンとは、ゲーテの「ファウスト」に登場するマルガレーテの愛称です。
モデルは嬰児殺害で公開処刑となったマルガレーテ・ブラント、そしてゲーテ14歳の時に思いを寄せた相手グレートヒェンであるとされています。
この歌は、「ファウスト」第1部の「グレートヒェンの部屋」の場面のものにシューベルトが曲をつけました。
その時シューベルト17歳w(゚o゚)w
ドイツ歌曲の流れを変えるこの曲をそんな若さで作曲したなんて信じられません。
ちなみに作曲の動機もシューベルトの恋愛にあるようです。
小太りで童顔のソプラノ歌手に恋をしてしまい、彼女のために作曲したと言われています。
この曲にあふれている激しさからシューベルトの思いのほどが伝わってきます。

主人公のファウストは、悪魔であるメフィストフェレスの計らいにより、グレートヒェンと庭で甘美な時を過ごします。
しかし、彼女への愛と罪の意識に苦しんだファウストは、森と洞穴で反省の日々を送っていました。
そこへメフィストフェレスがやってきて、グレートヒェンの近況や思いを伝えます。
グレートヒェンはファウストに捨てられたと思い、それでも彼を忘れることができずに苦しみ、失望しているのです。
あれこれとけしかけてくるメフィストフェレスに、「グレートヒェンの甘い肉体を思い出させるな」と叫ぶファウスト。
しかし、執拗なそそのかしにとうとう負けてしまい、グレートヒェンのもとへとやってきます。
そんなことを知らないグレートヒェンは、糸を紡ぎながらこの歌を歌います。

私のやすらぎは失せてしまい
胸が重苦しい
やすらぎはもう二度と戻らない
いつになっても

あの人のいないところは
私にとってはどこも墓場
この世のすべてが
とてもいやなの

私のこのあわれな頭は
狂ってしまい
私のこのあわれな心は
ずたずたに引きちぎられた

私の安らぎは失せてしまい
胸が重苦しい
やすらぎはもう二度と戻らない
いつになっても

ただただ、あの人をさがして
窓から外をながめ
ただただ、あの人を求めて
家から外に出て行くの

あの人の凛々しい足どり
気高いお姿
口元のほほえみ
まなざしの力

あの人のお話の
こころとろかす妙なる流れ
握って下さった手の力
そして、ああ、あの口づけ

私のやすらぎは失せてしまい
胸が重苦しい
やすらぎはもう二度と戻らない
いつになっても

私の乳房は
あの人を求めるの
ああ、許されるならあの人をとらえ
しっかりと抱きしめたい

そして心ゆくまで
口づけができたら、ああ、
その口づけに、たとえわが身が
とけて消えてしまおうとも!

4行10節の愛の詩。
その9節が問題の箇所です。
多くの訳詞は「Mein Bussen」を「私の思い」とか「私の胸」というように心の中のことを指しているように訳しています。
でも、「ウアファウスト」という初稿ともいえる作品の中で、ゲーテはこの部分に「下腹部」という単語を用いています。
つまり、グレートヒェンの肉体的な欲望をここで表現したかったのでしょう。
それを考慮するとここは「乳房」となるのではないでしょうか?
心の中のものではなく、身体の一部のものということになります。
ただし、下腹部ではあまりにも表現がきついと考え、書き直ししたのだと考えられます。
この歌のあと、ファウストとグレートヒェンは肉体の関係を持ちます。
そして、この行為が妊娠につながり、嬰児殺害の罪で牢につながれるというグレートヒェンの悲劇につながっていくのです。
この辺のことを理解した上で表現すると幅が広がっていくように思います。
そのために、9節をピアノから始め、「少しずつ次第に強く、かつ次第に速く」というシューベルトの指示を忠実に守り、「心ゆくまで口づけができたら」まで持続しなければなりません。
その部分の「ff(フォルテッシモ)」を歌いきったあとに、ようやく「次第に弱く、遅く」という指示のある第1節の2行の繰り返しがでてくるのですから。

グレートヒェンが糸車を回す情景描写とグレートヒェンの揺れ動く心の心理描写が一体となったピアノ伴奏の見事さ。
詩の表現しているものを歌と伴奏がそれぞれ違う音楽で表現されています。
詩と歌の旋律とピアノ伴奏の旋律がまるでポリフォニーのように重なりあっている点で画期的な歌曲といえます。
円形の糸車とその回転、陰鬱で激情に満ちた詩句、糸車の足踏みとグレートヒェンの動悸を表すリズム。
敬虔で純粋なグレートヒェン。
その心にファウストによって灯された愛と愛欲の切なさ。
思慕と恋情、愛欲に満ちた歌で激情的な面を持つ一方、乙女らしい純情さを忘れてはならないと思います。
シューベルトには天国的とかやすらぎとかがあると言われますが、それはシューベルトの一面でしかないのです。

「鑑賞」は楽しくない?

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今朝は霧がたちこめていて200㍍先がぼんやりとしていました。
24日にはウィンターフェスティバルといって、このグランドで様々な雪の遊びが行われる予定snow
この積雪でやれると思います?

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

私が「鑑賞」で研究授業をやると必ず言われることがありました。

「子どもの動きが見えないからおもしろくない。」
「歌ったり演奏したりする授業の方が見ていておもしろい。」
「歌ったり演奏したり、音楽の授業ならではの子どもの様子が見たかった。」

子ども自身が歌ったり演奏したりする授業は、見ている方にとっては子どもの動きがわかりやすいし楽しいと思います。
子どもの表情や子どもが発する音や音楽を聞いているだけでほほえましくもなってきます。
声を出していなかったり、演奏に参加していなかったりする子どもを把握しやすいし、技術的な点から来る能力の違いもはっきりするし。
動きのある授業ってわかりやすいですよね。
「教師としてその子どもへの手立てがどうだったか」ということも話題にしやすいし・・・。
どの先生が見ても話題にしやすい表現活動を公開することは、音楽科を理解してもらい、協力してもらうための一つの方法だと思います。

でも、表現ばかりが音楽科の学習ではありません。
全ての学習は「聴く力」に支えられています。
「聴く力」が育って初めて表現の能力が高まることは音楽科の教師であれば当然のこととしてわかっていること。
ところが、その当然のことが他教科の先生方に理解されない。
校内研修の目的は「教師の指導によって子どもがどのように変容したかを確かめる」ことにあります。
授業を見て楽しいか、楽しくなかったかなんていうことを話し合う機会ではありません。
それは見ている教師の主観でしかありません。
残念なことにそういう視点でしか発言できない人がいるのも事実です。
・子どもが動いている
・子どもが声を出している
・教室が賑やか
このような観点で研究授業を見て判断する先生はけっこう多いです。
こういう先生はグループ学習を公開すると喜びます。
なんとなく子どもたちが話し合っていて、なんとなく授業が盛り上がっているように見えるからです。
楽しい授業は最高。
でも、それはおもしろおかしいけど何を学んだのかわからない授業とは違いますよね?
授業に関係ない話題で盛り上がっている授業とも違いますよね?
何を学ぶのか、何を学んだのかがはっきりしている授業。
ただし学習内容を身につけさせるときに、子どもが楽しいと思えるような活動を工夫する。
このような授業をめざしているはずです。
「鑑賞」の授業は子どもの内面に踏み込むことが多いので、はっきりと子どもの姿が見えにくいという面を持っているのは事実です。
だからこそやりがいがあるし、おもしろいんです!
他の授業では発言しないような子どもがすばらしい聴取をする。
それぞれの感じたことを否定されないので、のびのびと発言できる。
そして自分から音楽の特徴を聴き取ろうと真剣に聴いていることは意欲の表れです。
決して能動的な受け身の授業ではありません。
静かに音に集中しているのは、積極的に音楽を聴いているからです。
発言したり、動くことだけが積極的ということではないのです。
また、「鑑賞」は表現活動以上に、教師の発問で子どもの能力を思う存分引き出すことができます。
「あの発問があったから、子どもあの意見が出てきた」と発問を研究対象にすることもできます。

特別活動的な音楽の授業をイメージしている方はかなり多いです。
音楽の先生の気持ちも知らないで、知ったかぶりで強く言ってきたり、嫌みを言う方もいます。
子どもたちがのびのびしやすいので「生徒指導」という(本当はしつけのレベル)ものを振りかざして批判する教師もいます。
理解されるには時間がかかりますが、めげずに頑張りましょう!

「Ave Maria」

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先日の北海道新聞に大好きな作曲家であるシューベルトの「Ave Maria」のことが載っていたので・・・。
私にとって、シューベルトの曲は心の奥深くでつながっている音楽のような気がします。
別格な存在と言っていいかもしれません。

シューベルトの「Ave Maria」として有名なこの曲。
ウォルター・スコットというイギリスの作家が書いたの叙事詩「湖上の美人(湖上の麗人)」に基づく7曲の歌のうちの一つです。
これをアダム・シュトルク(Adam Storck)がドイツ語訳し、シューベルトが曲をつけました。つまり、シューベルトの《歌曲集「湖上の美人」 "Liederzyklus vom Fräulein vom See" 》の一部を成しています。
ちなみにロッシーニもこの叙事詩をもとにオペラをつくっています。

そのあらすじは・・・
舞台は16世紀前半、山岳地帯に住む民族と国王派とに別れて争いが絶え間ない頃のスコットランド。
スコットランド王、ジャコモ5世は狩りの途中で道に迷って、湖上の美人と呼ばれているエレーナと出会い、彼女の家に行く。
そこで、エレーナが、実はジャコモ5世の敵・ダグラスの娘で、ロドリーゴ・デューとの結婚を強いられている事を知る。
ジャコモ5世もまたエレーナに心惹かれるが、彼女が騎士マルコムと愛し合っていることを知って黙って身を引き、「何かあったらこれを王に見せるように」といって、紋章入りの指輪を渡して去る。
やがてロドリーゴは、国王に対する反乱のかどで処刑され、エレーナの父・ダグラスも捉えられてしまう。
エレーナは、父の助命を国王に嘆願しにいき、そこで、父の命と引き換えにジャコモ5世から求婚されるが断る。
傷つきながらもエレーナの気持ちを尊重するジャコモ5世は、ダグラスの命を助け、エレーナと恋人マルコムとの結婚を許して二人を祝福するのだった。

エレンが自分と父の運命をはかなみ、聖母マリアへ祈りをささげているという内容の「Ave Maria」。
宗教曲と思われている方もいますが、そうではありません。
竪琴を模したピアノの上に、優雅さと甘美さと悲痛さの溶け合わさった感動的な旋律が流れていきます。
心やさしく、敬虔な気持ちにさせてくれます。

アヴェ・マリア!
やさしい乙女よ
この少女の願いをお聞き入れ下さい
固い、荒々しい巌の上からささげる私の祈りを御許に届かせて下さい。

たとえ世の人がどんなに私たちにむごくとも
あなたのお守りがあれば、私たちは朝まで安らかに眠ることができます
おお、マリアよ
この少女の苦悩に目をとめ
おお、母よ
この子の願いをお聞き下さい!
アヴェ・マリア!

アヴェ・マリア!
けがれを知らぬ人よ!
この岩に崩れ伏して眠るときも
あなたのお護りがあれば、固い岩さえやわらぐように思えるでしょう。

あなたがほほえめば、不気味な岩の裂け目にもバラの香りが漂うことでしょう。
おお、母よ、この子の訴えをお聞き下さい
おお、少女よ
一人の乙女がお呼びするのを!
アヴェ・マリア!

アヴェ・マリア!
清らかな乙女よ!
地上や空中の悪魔たちを、あなたの慈悲深い目で追い払って下さい
彼らは私たちと一緒にここに住むべきではありません。

あなたの神聖な慰めがあるところでは、私たちは静かに運命に従うつもりです。
この少女にやさしく身をおかがめください
父のために切なる願いを捧げるこの子に!
アヴェ・マリア!

年度末反省

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私の勤めている学校では今日、年度末反省の第1回目がありました。
スムーズに進みすぎて一日で終わってしまいましたが・・・(^-^;
なんだか一年間が終わってしまったような気がしています。
みなさんの学校は?
もう終わりましたか?
それともこれからですか?

私が最初に勤めた学校は職員数40名の学校でした。
年度末反省となるとたくさんの意見が飛び交う学校です。
教員になった最初の年、年度末反省での意見の出し方について先輩から指導を受けました。
発言にはある約束があり、何でもかんでも許されていたわけではないのです。
その約束とは・・・

「建設的な意見を言うこと」

わかりますか?
反省会議は、相手の落ち度を攻めたり、自らの愚痴を言ったり、弁解がましいことを言ったりするものではないということです。
「この学校をよりよくするにはどうしたらいいか」を真剣に考え、来年度の計画を立てるための参考となる意見を出し合う場です。

・できなかった理由を問い詰める。
・できなかったことに対して厳しい言葉で批判を浴びせる。
・とりとめもない愚痴を言い続ける。

こんな場面をよく見かけませんか?
できないところや計画通りに進んでいないところがあればその場、その時に教えてあげればいいこと。
何も1年間の最後の最後の会議に、それまでの鬱憤を晴らすかのようにまとめて人格を否定するようなことを言う必要はないのです。
(サボってやっていないのであれば怒るときもあるけれど・・・)
途中で計画通りに行かないことに気づいたのであれば、年度末反省を待たずにその時に修正すればいい話。
教えもせずに相手がミスをしたときには激しく批判する。
わからなくて困っているときだってあるのだから助けてあげればいいだけなのに・・・。
思いつきで意見を言っている人に限って、自分の言いたいことだけを吐き捨てます。

何回も書きますが、年度末反省とは、今年度のまずかったところを反省し、どうすればよりよくなるのかをみんなで考える場です。
係だけで考えていたのではよい案が浮かばないときがあります。
学校全体から見ると自分の考えたものとは違う案の方がいいときもあります。
いろんな視点から意見を出し合い、来年度の計画をよりよくするために必要なもの。
ですから、意見を出すときにはどうしたらよりよくなるのか、具体的な案や考え、助言をまじえて話すべきです。
つまり、自分の考えを持って会議に参加し、発言をしなければいけないということです。
発言をしたからには協力もしなければなりません。
批判をし、発言はするけどやらせっぱなしはだめです。
批判するだけしておいて、あとはお前が考えろ!
それができないから困っているのですから・・・。
自分にその考えもないのに、ただ相手のミスや反省を批判していたのでは学校はよい方向に動きません。
自分の力量を見せつけたり、自己満足のために相手を非難したり・・・そんなことのために会議があるのではありません。
人前での発言や批判はかっこのいいものです。
でも、本当に力のある人はちゃんとどうすればよいかということを具体的に助言してくれます。

新卒時代に教えてもらったことを忘れないようにしなきゃ!
「あなたの考えからすると、こうした方がいいんじゃない?」
「こんな考え方もあるから検討してみて」
「ここをこうしてほしいんだよなあ」
こんな発言を心がけて年度末反省に臨みたいですね。
相手の人格まで否定しないこと、建設的な意見を述べること・・・

「幽玄」

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見渡せば花ももみじもなかりけり

           裏の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ

「新古今和歌集」の編纂にかかわった藤原定家の歌です。
目の前にあるさびれたさびれた海辺の秋の風景。
あたりを見渡すものの何もない・・・
あるのはただ一軒の網をなうための小さな小屋のみ。。。
ただそれだけの様子を詠ったものです。
でも、この歌に存在するのは本当にそれだけでしょうか?

「花ももみじもない」・・・

わざわざ「花ももみじもない」と表現するところがすごいと思いませんか?
この部分を読んだ人の頭には、満開の桜や紅葉の盛りが思い浮かんでいるはずです。
何もない様子をただ伝えたくて「花ももみじもない」と表現したのではないのです。
そこにかつてあった物が見えなくなってしまう。
しかし、今は見えないからこそ、一層かつてあったはずのことが心の中に「あはれ」に思えてくる。
この感覚を「幽玄」と言います。

そんなことを思いおこさせてくれる風景でした。

今私が一番読んでみたい本は「花伝書」です。
「風姿花伝」とも言います。
世阿弥によって書かれた能に関する理論書。
でも、それは単なる理論書ではありません。
人間のほんの一瞬の美しさのこと、それをとどめようとしてもとどめることができないもの、それを常に求めて生きていくことの大切さが書かれていると思うからです。

「もののあはれ」

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学校の前庭の「もみじ」です。
あれほど紅葉でにぎやかだったのに今は雪をかぶってひっそりとしています。
はかないもの、ささやかなもの、小さなものをいとおしむ感覚・・・。
こういう情景を目にすると、「あはれ」とか「もののあはれ」とかいう感覚につながっているような気がします。

ところで、この「もの」には二つの意味があるって知っていましたか?
一つは「物」。
もう一つは「霊的なもの」を指しています。
特に、「もののあはれ」の「もの」は二つめの意味が強いと思います。
昔々の日本では、目には見えない霊的なものが世の中に私たちと一緒に存在していると考えていました。
親しい人のことを考えていると突然その人から電話が来たりなんて経験はありませんか?
それは、「もの」が媒介して起こることと考えられてきました。
「ものおと」というのも単なる物の音ではなく、そういう霊的なものの気配の音を指していたようです。
霊的な「もの」を感じながら「もの」を語る、または「もの」にかわって出来事を語っていくことを「物語(もの・かたり)」とも言います。
これらのことから、いかに霊的な「もの」を大切にしてきたかがわかりますよね。
物には魂が存在しているように感じるのもここから来ているのでしょう。

さて、私たちは友人や親、恋人などとうまくいかなかったり、別れがあったりすると胸が痛くなったり、せつなくなったりすると思います。
昔の人たちも男女の恋のはかなさや人の生死のむなしさを私たちと同じように感じていたと思います。
もしかしたら私たち以上に敏感だったかもしれません。
なぜなら、昔の人たちは男女の恋のはかなさや人の生死のむなしさを恋人とうまくいかないからとか相手が亡くなったからだとかというように目の前の現象面のみを理由としてとらえることはしませんでした。
雲や花や水の流れがうつろっていく様をとらえて、「もの」がはかなくなったり、せつなくなったりしているんだというふうに見ていたのです。
人間世界もそのようにうつろいやすいものだ、と感じる感覚、それが「もののあはれ」ということです。

あれほど燃えるような紅葉を楽しませてくれたもみじ。
でも、今は白い雪をかぶってひっそりとたたずんでいます。
同じもみじの木であるはずなのに季節のうつろいによってその表情は様々です。
もみじが季節によってうつろいゆくように、私たちの心も一日一日うつろいゆくものなのでしょう。
何気ない風景なのですが、そんなことを思いおこさせてくれます。

「宝山 紅東」

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浅田真央選手の「仮面舞踏会」を見たあとに、と買ってきた芋焼酎。
トリプルアクセルの2回成功と優勝・・・焼酎がさらにおいしくなりましたbottle
別に賞はどうでもいいんですがね・・・。
とにかく浅田真央選手の演技が見たかっただけ。
個人的には音楽の表現という点で前回の大会の方がよかったように思えます。
でも、だいぶ曲の大きさに負けず、自分のものにしてきているなあという印象を持ちました。
先週は、のぶさんのコメントを読んで組曲「仮面舞踏会」にどっぷりとつかっていました。
曲のすばらしさにすっかりのめり込んでしまいました。
どの曲もいいです!
今のお気に入りは「夜想曲」です。
浅田真央選手がフィギュアで使わなかったらこんなに聴きこむことはなかったかもしれません。
これも出会いですね。
夜のエキシビションが楽しみです。

さてさて、焼酎の話題に戻って・・・
今回買ってきたのは西酒造「宝山 紅東(べにあずま)」。
「西酒造」「宝山」ってどこかで目にしたことがあるでしょ?
そう、事故米が問題となった時に名前が出ていた酒造会社です。
芋焼酎なのに米?
材料は芋なのですが、使用している麹が米からつくられています。
でもこの焼酎は事故米の時に問題となった麹は使われていないのでご安心を。
「紅東」とは焼き芋に使われることの多いサツマイモです。
使用する芋の種類によっても味が違うんです。
宝山にはいろんな芋を使った季節限定のシリーズがいくつかあります。
滝川の「こばやし」で定価で手に入るところがうれしいところ。
来週になると麹にも芋を使った全量芋焼酎が届くそうです。
店に着いたら電話で教えてもらえることになっています。
今から楽しみですlovely
焼酎に含まれるうまみ成分はわずか1%と言われています。
その1%の味をちゃんと区別できる人間の舌ってすごいと思いませんか?

次の日は朝から雪かきとなりました。

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カイは積もった雪が大嫌い。
除雪した跡をおそるおそる歩きます。
そこから外れることは絶対にないという慎重さ(*^m^)

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カイの歩いたあとにできる足跡。
「二の字二の字」ではないけれど・・・

研究会のご案内

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北海道教育大学岩見沢校の尾藤教授より研究会の紹介がありましたのでみなさんにお知らせします。
参加を希望される方は尾藤教授に直接申し込むか、もしくは私に連絡を下さい。
大学教授と教諭という立場の違いはありますが、この空知で音楽科教育に携わり、子どものために研究を進めるるという点では共通のものがあります。
出会いを大切に、たくさん学んでいきましょう!
今後も研究会の案内等を載せていきますので、興味のある方はぜひ参加してみて下さい。

①12月23日(火)

10年経験者研修の講義。
「日本の伝統音楽の実習と日本の音楽の特徴について」
箏と能楽の謡を扱います。


②12月24日(水)10時20分~12時10分

岩見沢市一日大学
「日本の音楽の声」
観世流シテ方能楽師 中所宜夫(なかしょのぶお)氏
*学生の集中講義が24日、25日、26日とあるそうです。そちらの参加も大丈夫とのことでした。


③1月31日(土)13時30分~17時

日本学校音楽教育実践学会第2回北海道支部例会
案内文書をアップしておきますので、詳しくはそちらをご覧下さい。

「annnai.pdf」をダウンロード

なお、会場はいずれも北海道教育大学岩見沢校となります。

続・音楽科の受難

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前回の「音楽科の受難」に、中学校では6時間授業が一日増えると書きました。
それぞれの教科の時数を35週(1年間に授業が行われる週の数)で割った数字を時間割に当てはめると、一週間に29コマ(50分授業を1コマとした時の一週間の授業の数)の授業が必要になります。
現在は一週間に28コマの授業ですから、単純に考えると6時間の日が1日増えると言うことになります。
とはいっても、毎日ちょっとずつ積み上げる学習が必要なことってありますよね。
そのことを配慮して「総則編」の授業の1単位時間の部分には次のように書かれています。

「10分間程度の短い時間を単位として特定の教科に指導を行う場合において、当該教科を担当する教師がその指導内容の決定や指導の成果の把握と活用等を責任をもって行う体制が整備されているときは、その時間を当該教科の年間授業時数に含めることができる。」

一定の条件を満たしていれば、一日10分の授業を5回(一週間に5日間)やることによって50分の1コマと数えてもよいということです。
この考えをモジュールと呼んでいます。
朝の10分間の学習を計算や漢字、英単語などの反復学習にあてることができるということです。
その時には、ちゃんと教師がついて指導すること、教育課程があることなどが条件となってきます。
数学、国語、英語からそれぞれ12時間程度ずつ出し合えばこの方法は実施可能です。
国語、数学、英語に限らず、他の教科の組み合わせも考えられるでしょう。
ただし、道徳、特別活動、学級活動をこれにあてることはできません。
また、読書活動は時間外の教育活動と考えられるのでこれもあてはまりません。
これ以外の教科で、ということになります。
このモジュールの方法を使うと、今まで通り5時間授業の日を2日確保できそうです。
子どもへの負担も軽減できるし、反復練習に時間をかけることができるという長所があります。
そのためには日課を工夫したり、モジュールに見合った教育課程を作成したりする作業や話し合いが必要となります。

さて、どうしてこれが「音楽科の受難」なのか疑問を持つ方も多いことでしょう。
音楽科と美術科の教科時数をもう一度思い出して下さい。
どちらの教科も1年生は45時間、2・3年生では35時間となっています。
もう想像がつきますか?
この時間数だとモジュールでも実施可能ということになってしまうのです。
実際にこのような声が日本のあちこちから上がってきているのが現実です。

毎日10分間、朝か帰りに合唱の練習をすれば音楽の授業時間を確保できるでしょ!

こんな意見に対してどう切り返しますか?
「音楽科の授業は合唱ばかりではありません。歌唱・器楽・創作といった表現領域と鑑賞領域の二つの領域の学習をすることと学習指導要領に書かれています。」
こうはっきりと断言できますか?
学習指導要領を持ち出さなくとも「合唱以外の学習をやっています」と断言できますか?
「エーッ!いつも授業では合唱しかやってないでしょ?」
なんて言われて困る方はいませんか?
私たち音楽科の教師は校内で一人ということが多いです。
まわりの圧倒的な声に押されてしまうことってありませんか?
自分自身の考えをしっかり伝えていくことが大切になってきますよ!
なぜ、音楽科がモジュールになってはだめなのか。
音楽科ではどんな学習をしているのか。
などなど・・・
ちゃんと説明できなきゃ!
音楽科の教師が知恵や力を出し合って乗り越えていかなければならないことが増えてきますよ!
そのために仲間がいるということも忘れずに・・・。

中学校が直面している問題点です。小学校ではどうなのでしょう?

続「仮面舞踏会」

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すっかり雪が消えてしまいました。。。
あの除雪はなんだったんだ( ゚皿゚)キーッ!!
11年ぶりの高い気温だとか。

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

ハチャトゥリアン作曲、劇付随音楽「仮面舞踏会」のコメントやメールが多くなったので・・・。
音楽だけ聞いてもすばらしいのですが、物語を知っているとあの曲がどうしてあのような雰囲気を持っているのかがわかって面白さが増すと思います。

劇付随音楽「仮面舞踏会」はミハイル・レーモントフというロシアの作家が書いた同名の戯曲に付けられた音楽です。
評判がよかったこともあって、後に作曲者本人によって組曲版が編成されています。
その組曲版は、物語の進行通りとはなっていないので念のため。
のぶさんが演奏したのはこの組曲版ですよね。

さてさて、登場人物は・・・
アルベーニン:主人公で、相当腕の立つ賭博師。
ニーナ:アルベーニンの妻で若くて美人という設定。仮面舞踏会で腕輪を落としてしまう。
公爵:賭博で大負けしているところをアルベーニンに助けてもらう。
ある男爵未亡人:公爵とニーナの友人。公爵はこの未亡人を口説こうとする。男爵未亡人はニーナの落とした腕輪を見つけ、しつこく迫る公爵をあしらう材料として渡してしまう。
:昔アルベーニンとの賭に負けて大損した過去を持つ。そのため強い復讐の心を持っている。

物語は、次の5つの場面からなっています。

①「賭博」
久しぶりに賭博場へと出かけたアルベーニンとニーナ。
そこに負けが込んで全財産を失う寸前の若い公爵の姿を見つける。
かわいそうに思ったアルベーニンは公爵の代わりに博打を打ち、公爵の全財産を取り戻すことに成功する。

②「最初の仮面舞踏会」
後日、仮面舞踏会に出かけるアルベーニンとニーナ。
今度は公爵がある男爵夫人を口説いているのを目にする。
その一方でニーナは仮面舞踏会の会場で腕輪を落としてしまう。
その腕輪を拾う男爵夫人。
公爵があまりにもしつこいので、拾ったばかりの腕輪を渡してその場をしのぐ男爵未亡人。
口説いた女からのプレゼントだと腕輪を自慢する公爵。
でも、アルベーニンにはその腕輪に見覚えがあった。

③「腕輪の疑惑」
仮面舞踏会から帰宅したニーナは、腕輪をなくしたことをアルベーニンに告げる。
公爵が見せびらかしていた腕輪がそうであったと気づくアルベーニン。
公爵が口説いていたのはニーナであると激しい嫉妬心におそわれる。
愛する妻の裏切り、そして窮地を救ってやった公爵の裏切り。
二つの裏切りに激怒したアルベーニンはニーナの殺害を心に決める。

④「最後の仮面舞踏会」
再び仮面舞踏会に出かけるアルベーニンとニーナ。
アイスクリームに毒を入れて殺害しようと考えているアルベーニン。
仮面舞踏会から自宅に戻り、アルベーニンから差し出されたアイスクリームを食べながら
うっとりとワルツを回想するニーナ。
毒がまわりはじめ、苦しむニーナに公爵との仲を詰問するアルベーニン。
無実と潔白を訴えながらニーナは苦しみの中息絶える。
アルベーニンは事実を知ろうと改めてニーナの不貞を検索し始める。

⑤「幕切れ」
そこにアルベーニンに大負けし、恨みを持つ男が現れる。
その男はアルベーニンがアイスクリームに毒を入れるところを見ていた。
アルベーニンをなじる男。
そんなときに男爵夫人と公爵が登場し、ニーナの落とした腕輪を公爵に差し出したこと、腕輪はニーナではなく男爵夫人からもらったことをそれぞれ告白する。
ニーナの無実を知り愕然とするアルベーニン。
あまりの罪の重さにアルベーニンは精神錯乱を起こしてしまう。
賭に負けて恨んでいた男は、偶然にも復讐に成功することとなった。

浅田真央選手が使っているワルツは④の場面のものです。
ニーナが生前最後に踊ったワルツ。
自分の人生で最後となるワルツであり、二度と踊ることのできないもの。
二人で踊ったワルツにうっとりし、アルベーニンを信じて疑わないニーナ。
高貴な中にも邪悪さと哀れさが入り交じります。
アルベーニンの心を知らずに仮面舞踏会の余韻に浸り回想する場面に使われるこのワルツ。
早書きの天才(剣の舞は一日で作曲したとか・・・)として知られているハチャトゥリアンが生涯の中で一番苦労して作曲したと伝えられています。
複雑な感情の入り交じった曲ですから・・・。
浅田真央選手も表面上の幸せと、奥底に潜んでいる邪悪な心、これから起こる悲劇的な部分を何とか表現しようと後半のステップに磨きをかけているんですね。
のぶさんの言われるようにかなり表現しきれていると私も思います。

話が変わって・・・
今回、中野選手と安藤選手のフリーで使用している曲が偶然にも同じ「ジゼル」。
外国人の審査員や観客からすると中野選手の方が評価が高いとか。
自分なりに解釈し直した安藤選手に比べ、「ジゼル」の内容に忠実にのっとっている中野選手。
きっと文化的な伝統という観点からの評価の違いなのでしょう。
なかなか難しいものです。。。

続「Hilary HAHN」

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シェーンベルクとシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聞いて以来、気になるヴァイオリニストだったヒラリー・ハーン。
札幌に用事があったので、その帰りにタワーレコードによってみました。
「ヒラリー・ハーンの演奏しているCDはないかな?」
探してみるとけっこうたくさん録音していることがわかりました。

・J.S.BACHの無伴奏パルティータとソナタ集
・モーツアルトのヴァイオリンとピアノのためのソナタ
・メンデルスゾーン、ブラームス、べートーヴェン、ショスタコーヴィッチ、ストラヴィンスキー、メイヤー、バーバーのヴァイオリン協奏曲
・バーンスタインのセレナード

若いのにすごい!
今回はジャケットにひかれて(黒い服を着た女性が好きなので・・・)メンデルスゾーンとショスタコーヴィッチのヴァイオリン協奏曲がカップリングされたものを買ってきました。
ジャケットを見て買うなんて不純かな・・・。
お金を払おうとするとポイントで一枚無料になることが判明。
売り場に戻って、ブラームスとストラヴィンスキーヴァイオリン協奏曲がカップリングされたものを選びました。

さっそくメンデルスゾーンのものを聞いてみました。
シベリウスの時にも感じたことだけれども、ハーンのヴァイオリンは、空気を裂いてくっきりと浮かび上がってきます。
それでいて曲の全体を考えて演奏しているのが伝わってくる。
ちゃんとオーケストラとのことも考えているところがすごいです。
常に全体の中の自分を考えているといった感じ。
だからといってオーケストラに流されるのではなく、自分を主張しているし。
確信に満ちあふれていて、凛としたものがあります。
でも、冷たいばかりじゃなくてしっかりと情感も存在している。
速めのテンポで颯爽と弾ききっているんだけど、細やかな表情づけもできているといった方がいいかなあ・・・。
ジャケットの写真が全てを物語っているような気がします。
情念に流されずに聞くことができるので私は大好きなんだけど・・・。

今まで聞いていたムローヴァのヴァイオリンはセンチメンタルでしっとりと心にしみいるものでした。
微妙なテンポの揺らしとフレーズの最後のおさめ方、ポルタメントが特徴的な演奏です。
ムローヴァの演奏も聞き直してみるとやっぱりすばらしいです。
今となってはどちらも捨てがたいなあ・・・。

そして・・・ちょっとだけ聞いたショスタコービッチがこれまたすごい!
本当に20代前半の演奏?
突然の恩師の死によって若くして独立してきたことがよかったのかもしれません。
まだまだこれから円熟味を増していくんだろうけれども、目が離せないヴァイオリニストだと思います。
札幌に来ないかなあ。
どんなことがあっても聞きに行きたい!

いいんじゃない?

積雪40㎝。。。モヒャ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!

P1000535

除雪に1時間かかりました・・・早いほうだけど雪snowの重かったこと!
写真だとすごさが伝わらない(ρ_;)?

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

さて、またまた以前参加した会議での話。
私以外はみんな管理職という恐ろしいメンバー構成の会議です。
ある地区の校長が次のような話をしていました。
その地区の音楽教育連盟研究大会で鑑賞の授業を公開した先生がいたそうです。
研究討議で「なぜ鑑賞の授業をやったんですか?」とその校長が質問をしたところ、「鑑賞の授業ををやったことがないから・・・。苦手なので挑戦してみました。」との返事。
それを聞いたその校長は「その答えにがっくりきた」と。

曰く・・・
「子どもにこれを教えたいという信念はないのか?」
「そんな軽い気持ちで教育に携わっていていいのか?」
「最近の若い先生は軽い気持ちで授業をしている。授業の重みがわかっていない。」
「学習指導要領を本当に読んでいるのか怪しい」
「いくらいい学習指導要領が出ても、現場の教師がこのような現状ではなにも変わらない」
「子どものためにも、もっと勉強してほしい」

その話を聞いていた私はふつふつと怒りがこみ上げてきました。
「それでいいじゃん!」
その先生だって、表現活動ばかりの自分を反省して鑑賞をやろうとした証拠でしょ?
今までの自分と違うものを吸収したくて挑戦したんだよね?
参加した人たちがアドヴァイスしてあげればいい話でしょ?
まずは、その先生の考えを尊重してあげればいいのに・・・。
その余裕すらなくなってしまったのかなあ・・・。
しかも!
他地区とは言え、その管理職の現役のことを知っている私からすると・・・
「自分だって現役の時にそこまで考えていた?」
「合唱ばかりやってたんじゃない?」
「生徒指導ができないって同僚から批判されていたよね?」
とついつい過去のことが思い浮かびます。
立場が変わると立派になるんですね・・・。
現役時代は、それほどの実践も理論もなかったように思うけど。
ダメだだめだと否定的に見るのではなく、アドヴァイスしてあげればいいだけでしょ。
それがきっかけに伸びていくんだから。
芽を摘むのではなく、伸ばしていかないと。
チャンスをつくってあげないと。
まあ、それで伸びない時もあるけど・・・。
きっと自分が現役時代に言われてきたことを言っているだけなんだろうなあ・・・。
一番情けないことと私は考えるけど。
人を批判したからと言って自分の方が上とは限りませんよね?
勘違いしている人がたくさんいるけど・・・。

担任を持った時にはいつも学級崩壊する人なのに「お前は生徒指導のイロハがわかっていない!」と説教する人。
自分より立場の弱い人を説教することのよって自分の立場を守ろうとする人。
自分のことは棚にあげといて、とにかく相手を責める人。
自分の理想を押しつける人。
別室に呼んで二人きりで指導するのがとにかく好きな人(純粋な指導ばかりじゃない・・・)。
面倒なことは押しつけておいて批判する人。
自分で資料も作れないくせに、「文部科学省の誰々先生はこう言っていた」と権威にばかりにすがる人(資料は全てコピーばかり・・・)。
自分にとって有益かどうかだけで人を判断する人(将来管理職になる人と思ったら突然態度を変えるなど・・・)。
表面はやさしそうに見えて、裏ではベロを出している人(こういう人にだまされる人のなんと多いことか・・・)。

なんだかいろんな人がはびこっていますよね!
そんな一人にならないようにしなきゃ!

「REQUIEM」K.626

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1791年12月5日、午前0時55分・・・モーツアルトが亡くなった日です。
私は毎年この12月5日に「REQUIEM」を聞くことにしています。
最後の最後まで作曲に取りかかり、死の床にあっても弟子のジュースマイヤーに完成の指示を与えたとされるのがこの「レクイエム(死者のためのミサ曲)」です。
1791年の夏、灰色の服の使者が注文主の名前を伏せたまま「レクイエム」の作曲を依頼しに来たことが作曲の動機です。
モーツアルトは自分のためにあの世から注文されたと思い込んでしまいます。
その曲が自信の最後の曲となったのですから、不思議な因縁としか言いようがありません。

モーツアルトの手で完全な形として完成された部分は「イントロイトゥス(入祭文)」の「Requiem」「Kyrie」のみ。
「セクエンツァ(続唱)」はほぼ完成に近い形でモーツアルトの残したものが存在します(声楽パートであったり、オーケストラの低音パートであったり、オーケストラの伴奏部の動機であったり・・・)。
しかし、「Lacrimosa(涙の日)」だけは8小節目、旋律がクレシェンドの半音階で上行し、8度下降したところで筆が途絶えています。
最も心を打たれる瞬間です。
補筆が必要とされた部分は、弟子のジュースマイヤーによって手が加えられています。
その後、このジュースマイヤーの補筆について、音楽的ではないとの指摘が後を絶ちませんでした。
その理由から、現在ではいろんな方により補筆が行われ、様々な版が存在します。

ジュースマイヤー版
・カール・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー (1971) 
・セルジュウ・チェリビダッケ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー (1995)
・ヘルマン・シェルヘン指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団 (1958)
・ヘルベルト・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー (1986 LD)
初めてこの曲を聞いたのは祖父が亡くなった時のこと。
カール.ベーム指揮のCDはその時に楽譜と一緒に購入したものです。
祖父は浄土真宗の僧侶だったのですが・・・。

リスト版
と言っても「コンフターティス(呪われた者どもを罰し)」と「ラクリモーサ(涙の日)」のみのピアノ編曲版です。
・ヴァレリー・トリオンのピアノ (1995)

バイヤー版
・ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーン・コンチェルトゥス・ムジクス (1981)
・レナード・バーンスタイン指揮 バイエルン放送交響管弦楽団 (1988 LD)
おもにジュースマイヤー補筆部分の誤りや響きをモーツアルトの響きに近く訂正し、整えたとされる版です。
アーノンクールの演奏はカール。ベームの次に聞いた演奏です。
その衝撃は今でも忘れません。
心臓をえぐられるようなティンパニの一撃が衝撃的です。
バーンスタイン指揮のものは亡き妻に捧げられた演奏です。
でも、バーンスタインは同性愛の方を選択して妻と別れたんだけどなあ・・・。
バーンスタインが後にエイズの撲滅活動に力を入れたのもエイズにかかった相手のためといわれています。
妻が死ぬ間際に「呪ってやる」という言葉を残したために、その十字架を背負って音楽活動を進めていたようです。

ランドン版
・ブルーノ・ヴァイル指揮 ターフェルムジーク・バロック管弦楽団 (1999)
バイヤー版よりも一層踏み込んだ補筆と訂正が行われている版。
モーツアルトの死後すぐに補筆を計画したアイブラーという作曲家のものがベースとなっています。

モーンダー版
・クリストファー・ホグウッド指揮 エンシェント室内管弦楽団 (1983)
ジュースマイヤー版の不備を徹底的に除去しようとする意図のもとにつくられたものです。
「セクエンツィア」のオーケストレーションを変え、「サンクトゥス」と「ベネディクトゥス」についてはジュースマイヤーが作曲したものとして巻末の付録にしてしまっています(つまりこの版では演奏されない)。
モーツアルトがフーガにする予定だったと言われている「ラクリモーサ」の「アーメン」を1962年に発見された作曲者自身のスケッチから再現した部分が必聴です。
合唱団は全て男声で、響きが整えられています。

ドゥルース版
・ロジャー・ノリントン指揮 ロンドン・クラシカルプレイヤーズ (1993)
「セクエンツィア」と「オッフェルトリウム」のオーケストレーションにかなり手を入れています。
この版にも「アーメン・フーガ」が取り入れられています。
ジュースマイヤー版ではこの「アーメン」がたった二つの和音で解決されてしまっていますから・・・。
モーツアルトは長いフーガを考えていたというのに・・・。

レヴィン版
・マーティン・パールマン指揮 ボストン・バロック (1994)
ドゥルース版と同じく、「セクエンツィア」と「オッフェルトリウム」のオーケストレーションにかなり手を入れています。
この版にも「アーメン・フーガ」が取り入れられています。
響きが透明なのと、歌に祈りがこめられているようで、この演奏が一番好きです。

ブリュッヘン版
・フランツ・ブリュッヘン指揮 18世紀オーケストラ (1998)
ジュースマイヤー版をベースにしているのですが、グレゴリオ聖歌を挿入しているところが祈りの深さを表現していて、しかも響きが新鮮です。

「ラクリモーサ」の8小節目から9小節目に移行する部分、永遠に失われてしまい二度と手に入れることのできないものへの深い悲しみが急激に襲ってきます。
今日も大好きなマーティン・パールマン指揮のボストン・バロックの演奏を聞きます。

続・「言語活動の充実」って?

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*言語活動の充実の目的がわからない。
*音楽を聴いてただおしゃべりしたり、好き勝手なことを話する時間なんてもったいない。
*難しい音楽用語を身につけるために時間を割くくらいなら、違う活動に取り組みたい。
*音楽に関する用語を覚え、諸要素の言葉を使えるようになることに意味があるのか。
*音楽科では音によるコミュニケーションが大切なのであり、そこにどうして言語活動が必要なのか。

これもまたある協議会に出席した時に実際に耳にした言葉です。
音楽科においてなんのために「言語活動の充実」が必要なのか、その目的を見失ってしまっているのでしょう。

音楽について好き勝手におしゃべりすることが言語活動の充実ではありません。
音や音楽を聴いて感じ取ったことや聴き取ったことなどを、共通の音楽の諸要素に関する言葉を使って伝え合うことが大切です。
だからといって、専門的な音楽用語や諸要素の言葉を覚えさせることだけに限定してしまうのは間違いです(覚えて、自由に使いこなせるようになれば最高だとは考えますが・・・)。
また、音楽は音によるコミュニケーションであることに異議を唱えるものではありません。
しかし、主観や表現の技術の問題があり、音だけで伝え合っていたのでは不確かな部分がたくさん出てきます。
人は言葉を使って思考し、言葉を使って頭の中のことを伝え合っています。
音楽においても、音や音楽を聴いて感じ取ったことや聴き取ったことを確実に伝え合うには言葉で表現して伝えることが必要と考えます。

さらに、私たちの日常の学校風景を思いおこしてみて下さい。
学校には様々な価値観を持った子どもたちが一緒に生活しているところです。
主観や自分の意見を主張することばかりでは社会は成り立ちません。
学校とは価値観の違う者同士が集団で生活することにより、自分とは違った考え方や感じ方などを受けとめ、認め合うことができるようになることをめざして教育しています。
つまり、価値観の拡大と深化をめざしているのです。

音楽科における「言語活動の充実」も価値観の拡大と深化を目的としています。
音楽の聴き方や感じ方は一人ひとり違います。
お互いの聴き方や感じ方を伝え合うことにより、自分とは違う聴き方や感じ方を知り、認め、受けとめることができる。
さらには、伝え合うことにより自分になかったものを身につけていくきっかけとなる。

決して難しい用語や音楽の諸要素の言葉を覚えることだけが言語活動の充実ではないのです。
将来的には、自分の好きな音楽のどこがすばらしいのか、その音楽のどこが好きなのかなどをお互いが伝えあうことができるようになればいいな、と思います。
そのことこそが生涯を通して音楽を好きになる子どもを育てるということだと思うのです。
その時にジャンルは問いません。
以前紹介したこともありますが、中島美嘉の「雪の華」をお昼の放送で聴いていた時の子どものような会話ができれば最高と私は考えています。

「雪の華ってさ、歌詞は幸せそうなのに音楽は切ない感じがするよね。」
「中島美嘉の声の感じがそう感じさせるんじゃない?」
「う~ん、でも旋律もなめらかでなんとなく切なさを感じさせるよ。」

五分間って。。。

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「5分間」と聞いて長いと感じますか?
それとも短いと感じますか?

ちょっとした書類を仕上げる。
お礼の電話をかける。
メールの返信を書く。
プリントへのコメントを書く。
打ち合わせや確認をする。
印刷をする。
授業内容の確認をする。
などなど・・・

たった5分といえど、されど5分。
考えてみると5分間の間にやれることって結構あります。
「5分しかないから無理かな・・・」と考え、仕事を後回しにしてしまい、そのまま。
たくさん時間のある時にやろうとすると急に用事が入ってしまう。
一回休憩してしまうとエンジンがなかなかかからない。
そんな経験がよくあります。

「今やってしまおう!」
「5分で仕上げるぞ!」
「できるところまでやっておこう」
「途中までは仕上げられるぞ!」
「時間ぎりぎりまで取り組んでみよう」
自分を追い込んでやってみるとけっこう仕上がることってあります。
時間が限られる分、集中力が高まったりもします。
目標がはっきりするからかもしれません。
また、たった5分でも積み重ねって大きいです。
きっと仕事のできるできないの差はこんなところからくるのでしょう。

5分を大切にしてみませんか?
おしゃべりしたい誘惑に駆られる時もありますが、まずはやることをやってから。
休憩は絶対に必要ですが、まずは集中して仕事を済ませてから。
ついつい楽しいことに気持ちが行ってしまいがちになるけど。。。
そんなことを自分に言い聞かせて生活しています。

子どもたちにもよく言うことなので。
自分自身も心がけてみようかと。

「言語活動の充実」って?

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2012年度から完全実施される学習指導要領には、どの教科にも「言語活動の充実」がうたわれています。

「今の子どもは語彙数が少ないからなあ・・・。すぐにバカとか死ねとかの一言で自分の感情をあらわしてしまう。そのせいで他者と上手にコミュニケーションがとれず、トラブルを起こすことが多い。もっと言葉の数を増やしてあげたり、模範となる話し方を教えていかないと・・・。」
確かに、言葉の数や話の仕方を教えてあげることは必要なことです。
しかし、「言語活動の充実」って、言葉の数を増やしたり、模範となるような日本語で話できるようになることだけをめざしたものなの?
それが目的?
ここを勘違いしたために次のような話も出てきます。
「漢字の書き取りに時間をかけて言語活動を充実させる。」
「数学の公式をたくさん覚えさせて数学科としての言語活動を充実させる。」
「理科の定理を覚えることから理科の言語活動の充実を図る。」
「年号とか出来事の名称を覚えないと社会の言語活動は成り立たない。」
「とにかく英単語と文法を覚えてもらわなきゃ!」
どうです?
この発言は実際に私が耳にしたものです。

音楽科では・・・
「文部科学省から出ている教育用音楽用語の言葉を覚え、発表の時にそれを使って伝えあうことができるようになることが音楽科における言語活動だ」
という実践発表もありますw(゚o゚)w
「教育用音楽用語」って、文部科学省が教育芸術社から出している結構厚い本です。
それを覚えさせることが言語活動の充実とは・・・。
教師でもしっかり覚えている人はいないと思うのですが・・・。
子どもたちだって音楽以外に勉強することもあるだろうに。
全部の教科がそのようなことを求めているのだとしたら子どもがかわいそうです。
全部の教科の学習指導要領を頭に入れるのと同じですよね?
教師ができないことを子どもに求めるのは酷だと思うのですが・・・。

専門用語を覚え、それを使って話できるようになることが「言語活動の充実」?
専門用語を使えないと言語活動は充実したと言えないの?
そうだとしたら専門用語という知識を詰め込むことにならない?
たくさん専門用語を覚えた者の勝ち・・・。
「言語活動の充実」を図ると詰め込み教育に戻るってこと?

もう一度「言語活動の充実」の目的を考えてみましょう。
その目的は・・・

「自分の考えや感じたことなどを自分なりの言葉で表現し、相手と伝えあい、コミュニケーションを図ること」

にあります。
その時に、自分だけにしか意味の通じない独自の言葉で表現したり、「べつに」などという言葉で表現していたのではコミュニケーションが成立しなくなってしまいます。
お互いに共通の言葉を使っていかないとすれ違いが起こってしまいますよね?
だからこそ、共通の言葉としての専門用語が「手段」として必要になってくるのです。
ただし、専門用語を全て覚え、教師と同じように使いこなせる子どもなんてまずいないでしょう。
そこに教師の支援や援助、手助けが必要なのです。
コミュニケーションを成立させる時に一番大切なのは、「これを伝えたい」という意欲を持つことだといわれています。
伝えたい内容、伝えようとする気持ちがあるから表現する。
専門用語を覚えていないからC、専門用語で話していないからC・・・こんなことをしていたのでは子どもたちは表現しようという意欲を失ってしまいます。
それでは本末転倒ですよね?

まずは、相手に伝えたいという気持ちを持たせる指導をする。
それは何を発言しても許されるという雰囲気づくりから始まります(ただし、ウケねらいや見当違いの発言には指導が必要です)。
子どもには、伝えたい内容をまずは自分なりの言葉で表現させる。
その発言を認め、受けとめつつ、子どもの言葉を教師が専門用語で補足して援助する。
次の時には少しでも使うことができるように成長していることを願って。
そのことにより「言語活動」は充実していくものと考えます。

でもなあ・・・
専門用語を知識として覚え込ませる方向に走る人がけっこう出てきますよ。
それから、「言語活動の充実」に適している教科と適していない教科もあると思います。
そこを無理して指導しようとするからおかしな意見が出てくるんじゃないかなあ。
音楽科は。。。もちろん適している教科ですよ!

音楽科の受難

来年度から新学習指導要領の移行措置が始まります。
中学校音楽科では、共通教材を1曲以上取り組むことから始まります。
2012年度までは「共通事項」の問題はあるにせよ、大きな変化はこれぐらいです。
ここまでを読んでホッとしている方もいることでしょう(^-^;
でも、問題はここからなのです。

総則に目を通し、具体的な数字に置き換えてビックリした方もいることでしょう。
すでに学校全体で取り組んでいるところもあると聞きます。
なにせ、2012年度からは5日間のうち4日間は6時間授業となるのですから。
つまり、5時間の日数が1日だけになるということです。
しかも!
ハッピーマンデーの影響で授業時数の確保がかなり厳しくなることが予想されます。
7時間授業や長期休業中の補習など、かなり現実になる確率が高いです。

そして、標準授業時数!
2011年度までは総時数が980時間。
2012年度からは総時数は1015時間となります。
「へえ~、そんなに増えるんだ・・・」とそれだけで終わらせてはいけません!
各教科の時数の変動に注目しないととんでもないことになってしまいます。
!!(゚ロ゚屮)屮

まず、来年度から徐々に総合的な学習の時間と選択教科の時数が減っていくことはもう知っていることでしょう。
2012年度には、総合的な学習の時間は1年生が50、2年生が70、3年生が70という時間数になります。
選択教科は・・・なくなります。
これらの時数を減らした分を国語、社会、数学、理科、英語、保体にまわすことになります。
2012年度までにどのくらいずつ時数を移動していくのかは、全員に配布された「学習指導要領」(黄色い本)にのっているのでそちらを参考にして下さい。
2012年度には・・・
国語~1年生140、2年生140、3年生105
社会~1年生105、2年生105、3年生140
数学~1年生140、2年生105、3年生140
理科~1年生105、2年生140、3年生140
英語~1年生140、2年生140、3年生140
保体~1年生105、2年生105、3年生105
総合~1年生50、2年生70、3年生70
140時間ということは週に4回授業があるということです。
105時間ということは週に3回授業があるということです。
具体的な時間割が頭に浮かびますか?

まず、複式の学校ではかなりの負担が予想されます。
そして、そうでない学校でも、いわゆる5教科の先生方に他教科をお願いすることは難しくなることでしょう。
そうなると美術と技術家庭科の先生がいない学校では、それらの教科を音楽科の先生が全て担当する可能性がかなり高いです。
また、5教科の先生方、特に英語の先生には担任をお願いすることが厳しくなります。
芸能教科の先生が学級担任を持つケースがかなり多くなるのではないでしょうか。
同様に校務分掌。
授業時数から考えると、芸能教科の先生には教務や研修、生徒指導がけっこう当たるかも・・・。
そこに他組織の役員も絡んでくるはずです。
分○長、支○長、書○長など、けっこうあたる確率が増えてくるのではないでしょうか。

音楽科ばかりではなく、全体を意識してみて下さい。
そうしないととんでもない事態が待ち受けています。
中学校の音楽科を担当する以上、かなりの覚悟が必要になりそうです。

師走!

とうとう今月で2008年も終わり。
本当に早いですね・・・。
札幌ではホワイトイルミネーションが点灯しました。
会議で札幌に一泊し、飲んだ帰りにパチリ!
今年のイルミネーションもきれいです・・・青が多くなったような気が・・・。
感動のお裾分けですshine

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夢街

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    それぞれの街にはそれぞれの魅力があります。 通りかかったときに目に飛び込んでくる風景。 心に残る瞬間瞬間を写真に残してみました。

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